122−1.2003年12月23日.無意味な戦争を始めた祖国への怒りーペギー・ギッシュさん講演会(1)〜(10)
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主催は「九条の会ヒロシマ」、司会は木原省治さん。最初、授賞式出席の後、平和公園訪問が目的で したが、 「ヒロシマの人と話しをしたい」と希望されたペギーさん。
下に藤井さんからの呼びかけ (その下にさとうさんの書き留められたペギーさんの話1)
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今春の米軍によるイラク空爆時に、救援活動を行なったペギー・ギッ
シュさん 講演会が23日、広島市西区のワールドフレンドシップセンターで行われました。 ペギーさんは、29歳で亡くなった弁護士・多田謡子さんを記念した2003年度の反権力人権賞受賞者です。 |
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藤井純子さんたち「九条の会」事務局の人たちの必死の呼びかけで、思っていたのを遥かに超える人々が集まり、狭い会場はぎっしり一杯。
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話の内容も事実体験に基づいたもので聞き応えがありました。
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「さとう」さんがパソコンを持ち込んで、ほとんど完璧にペギーさんの話を書き留めてくれました。で1ページ目、2ページ目にわたり下にその成果を掲載しています。ここのコメントもさとうさんの報告に大幅の頼って出来ているものです。 (なんと、家に帰ったらもう報告がメールで来ているのでビックリ!) 長いけど読み応えありますよ。
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2月にイラクに行かれた小林善樹さんからも短く補足あり。 | |
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第九条の会ヒロシマの藤井です
12月23日という何とも忙しい時の、ペギー・ギッシュさんの講演会のお知らせは心苦しいですが、彼女たちについてその後、2月にイラクに行かれた小林善樹さん(やはり農業をしている)から情報が入りましたので追加します。
12月23日(火) 午後1時30分〜3時30分
ワールド・フレンドシップ・センター
参加費:500円
広島市西区東観音町8-10 082-503-3191
ペギーさんは「イラク平和チーム」としてバグダッドで活動をされていた今年3月28日逮捕され、翌日強制退去となりましたが、その時の感動的なお話が聞けそうです。また、その後もどうやら
このグループは活動を続けているようで、ペギーさんも再度イラクに入られたもようです。もともと非暴力平和隊でもあり、その関係で広島へというお話が来たのだそうです。
ペギーさんは24日、成田から帰国されますが、何と自宅には帰らないでイラク入りされるのではという情報も入っています。思った以上に迫力のあるアクティブなお話しが聞けそうで楽しみです。小林さんも駆けつけて下さるそうなので内容も濃く、ご満足頂けるのではないでしょうか。
23日朝の平和資料館の見学、夜「のらや」での囲む会にもご参加下さい。
(ペギーさんの話1)−さとうさんの報告より
2002年にブッシュがイラク侵攻を決めたとき何が出来るかを考えました。そして、私たちは、数百人のアメリカ人がイラクへ行って済んだらどうなるかと考えた。
経済制裁をしている最中に大挙していくことは法律違反でいけないこ
とは知っていたが、しかしそれが良い方法だと思った。
そうすることでどれくらいのイラク人の命を救えるか考えるイラク・ピースチームを2つの団体がつくりました。
1996年に経済制裁を終わらせるための団体と宗教団体す。
2002年9月に第1陣が到着、ペギーさんは第2陣として参加しました。
彼女は5ヶ月イラクにいて、その後アメリカに帰りました。
アメリカに帰った後、イラクの実情を伝えるため、スローガンを掲げました。
イラクの人達はどのようにして日が昇り、どのように日が沈んで日が終るのかというお話をしました。
ひつじと犬の距離ではなく、無花果の木とぶどうの木の距離で図るそうです。
私たちがそこへいるとき、私たちはどうしたら戦争をやめることが出きるかということが問題です。
私たちは、向こうの家族と一緒に住み、街の人と話すということをしました。水の汚染、劣化ウラン弾による被害などを知りました。
ユニセフの調査で制裁で170万人のイラク人が亡くなったことが
明かなのに、アメリカは謝罪をしていません。
私たちはイラクで何が起きたか、だけでなく、街頭へ出て何がイラクで起こっているかを伝えました。
ブッシュはいろいろな要求を他国にしているが、それに答えるべき
ではないと言う事を明らかにして来ました。
一番最初の湾岸戦争で爆撃されたところに横断幕を張りました。
ペギーさんたちは、イラクとクウェートの国境線にも行きました。
そこからはアメリカ軍も見えました。
アメリカ兵には、この戦争に参加して後悔する事のないよう
脱走しろという内容の横断幕を張りました。
戦争が起こるだろうという恐怖感で、緊張していました。15歳の少年はなぜブッシュは私たちをころそうというのか、
と訴えてきました。
いよいよ戦争が始まるというとき、水源地にテントを張りました。
その水源地に四日間いました。そして、爆撃が始まりました。
その後そこを外れましたが、他の人が入ってきました。
一般的な人からみたら馬鹿げていたかもしれないが、イラクの人を
救うにはそれしかなかったと考えました。ブッシュには「ここに
人間がいるのだ。爆弾で殺されるのだ」ということを警告したかった
のです。
民間人がいる地区で爆撃された地区に行きました。
壁にクラスター爆弾の破片が入っていました。クラスター爆弾は人体を狙った爆弾です。人を殺すための爆弾です。けがにんが運び込まれている病院にも行きました。
女性、こども、そのほかたくさんの人が怪我をしているのを見まし
た。
日本人も二人いました。(白井さんと森住さんか?)
爆撃された地域に行ったとき、イラクの警察にそこにいていては
いけないといわれ、強制退去となりました。3台の車で国外へ
去ろうとしましが、爆撃を恐れて、最後尾の車が事故を起こしまし
た。
けが人が出たそうです。イラクの人がけが人を運んでくれたそうです。
私はアメリカ人だったのですが、家族同然に暖かく迎えてくれました。
マンジョーダンで朝日の記者のホンダさんにお会いし、その後日本に
来ました。
残った人は、戦闘下のバグダッドに滞在し、そこから報告を続けました。彼らに一体何が出きるか?という疑問を持ちながら帰りました。
御金などもあまりなかったので、一体何が出来るかと自答したそうで
す。
私たちができたことは、人の話を聞き、人々の悩みや苦しみ、怒りを伝える事です。
ある種の人は、サダムを恐れている、アメリカが解放したと喜んだ人もいる、一方で、アメリカがきて喜んだ、しかし、豊かになるという約束が果たされず、アメリカ兵が駐屯している事への怒りが広がっています。
(次ページ下に続く)