309−6.2009年3月14日、湯浅一郎さんを送る会(51)〜(60) 
   

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平木薫さんからメッセージ紹介は、高橋昭博さん(被爆者、原爆資料館元館長)からの祝電である。
高橋さんから湯浅さんに今後の活躍へのエールが送られた。

 

 

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利元克巳さん(核兵器廃絶をめざすヒロシマの会、ヒロシマ革新懇)は、藤田厚吉さん(核兵器廃絶をめざすヒロシマの会元運営委員、元全通産)のメッセージを代読した。
藤田さんは、湯浅さんの職場の大先輩であり、湯浅さんと共に中工試の労働組合を作った。
広島県原水協の重鎮でもある。その藤田さんは、湯浅さんの存在そのものと運動における誠実さをメッセージの中で訴えた。
利元さんは、湯浅さんのいないヒロシマで今後も共同の力を発揮できるようにと、会場参加者全体にエールを送った

 

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いよいよ湯浅一郎さん。決意の言葉が静かにゆっくりそれでいて曖昧さのない明確な言葉で。あの湯浅節である。


ひととおりスピーチをしていただいた弁士に謝辞を述べた上で、振り返った上で、定年後は自分の思い通りに、やりたい運動を自由に進めていくと言う選択肢もあったが、あえて、しんどい道を選ぶことになった。ピースデポは、市民社会になくてはならない存在になってきており、それを定着させるために日々研鑽を積みたいと決意を表明した。海に関しては、首都圏と東京湾の関係を追究するなかで、瀬戸内海問題ともつながっていきたいとも付け加えた。ただ詳細は、聞いていたこちらの胸もいっぱいになって、その言葉を今は思い出すことができない。ただ、会場全体が、湯浅さんと一緒に運動を短くても長くても取り組めたとの幸せな思いを共有していたのは確かだった。その時間をみんなで立ち会った。運動には、一瞬一瞬の決して忘れられない思い出のシーンがある。それは時には痛く悲しい辛いこともある。ただたいていは、負けっぱなしでも、楽しく豊かな幸せな時間なのである。悠久の時の流れの中で、偶然の連続の中での必然的な湯浅さんとの出会いに感謝したい。

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ピースリンク広島・呉・岩国の呉世話人・西岡由紀夫さんから花束贈呈

 

 

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ピースリンク広島・呉・岩国の広島世話人・新田秀樹さんから花束贈呈

 

 

 

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娘の湯浅野花さんから花束贈呈

 

 

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湯浅野花さん、父湯浅一郎を語る。手前は、息子の湯浅独活さん。(もう一人の息子さん、再生さんと一郎さんのお連れ合いさんは欠席。

 

 

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ここの野花さんのスピーチは、この父にしてこの娘ありかと思わせる感動的なものでしたが、家族のことなのでここで紹介するのはやめます。

 

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緩急車雲助さん

 

 

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 田村順玄さん(岩国市議会議員、ピースリンク広島・呉・岩国世話人)から閉会挨拶。
今日、麻生首相は、岩国基地(飛行場)に入り、そこから呉基地へヘリで飛んだが、その際、米軍住宅建設が狙われている愛宕山も上空から視察したのではないかと語り、湯浅さんが岩国住民から引き出してくれた岩国市民のパワーに依拠して今後も闘っていくと田村節で締められた。