5.中国軍管区(第五師団)地下通信司令部跡   (中区基町21・護国神社入口)
   
 

護国神社を含めた下段広場に第五師団司令部が置かれていました。今、当時の名残をとどめているのは、境内の南側にある半地下式司令部跡の残骸だけです。

 師団とは、参謀部を持ち、独立して作戦・用兵を行う兵団のことです。1873年東京・大阪・熊本・仙台の四鎮台に名古屋と広島が加わり、それまでの旧藩兵に変わって徴兵令で招集した兵を入営させました。1886年の師団番号制とともに広島は第五師団となりました。当時の日本の総常備兵力は三万七千人でした。敗戦時の兵力は合計約720万人にもなっていました。第五師団は、日清戦争から第二次世界大戦までのあらゆる戦争に参加。敵前上陸では常に先頭を切り、太平洋戦争中は、第二十五軍の基幹師団を構成、マレー作戦など主として南方に転戦し、フィリッピンのセブ島で敗戦を迎えました。その間、侵略戦争の軍隊として、アジアの諸民族に計り知れない被害を与えています。

2008年7月16日撮影。

   
 

太平洋戦争突入後の1943年になると国内留守部隊の整備編成が行われ、留守第五師団は中部軍司令部隷下の中国軍管区司令部になりました。

そして、あの日を迎えました。爆心地から約1000メートル以内に、広島城天守閣を取り囲むように並んでいた司令部関係の各建物は、原爆の炸裂と同時に壊滅しました。ただこの半地下式司令部通信室だけがかろうじて残りました。

2008年7月16日撮影。

   
2013年4月17日撮影。
   
 新しく千羽鶴を奉納するところが出来たようです。

2013年4月17日撮影。
   
 
この地図は、私たちが、被爆当時ここの兵士だった方から聞き取った図面を10年以上前から作ってフィールドワーク参加者にお渡ししていますが、それとほぼ同じ内容です。昨年(2012年)お目にかかりました。

2013年4月17日撮影。
 
   
   動員学徒の女学生がこの窓から外を見たところ建物が無くなっておりビックリされたそうでう。
2008年7月16日撮影。
   
 右の写真は1994年6月1日、原爆で片目を失われた故久保浦寛人さん(元「被爆者証言のつどい」代表)がここを案内されるところ。

1994年6月1日撮影。
 

この地下司令部通信室から、学徒動員で来ていた比治山高女の14才の女学生(岡ヨシエさん)が、「広島全滅」の第一報を送信(返信)したので

左の写真は2012年8月6日、体調不良をおして、フィールドワークで、壕内の当時の状況を証言する岡ヨシエさん。

なお、毎日新聞ホームページ・街並みの記憶(15)で、この地下通信司令部、岡さんとともに、1934年の「第五師団司令部」の写真が掲載されていました。

2012年8月5日撮影。
   
 2008年8月05日撮影。  
   
 2006年8月5日撮影。
   
  2011年12月7日撮影。
   
  2013年4月17日撮影。