197−2.2005年8月5日.8・6ヒロシマ平和へのつどい2005(11)〜(20)

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 伊藤真理子さんは「特高から目をつけられ、アナーキストの夫が準禁治産者だという理由で家族からも縁を切られた栗原さんは、天皇制への深い違和感を抱いた理想主義者だった」と述べられました。
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栗原貞子さんの娘さんよりも挨拶

 

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 「松江澄さんと平和運動を語る」として、爆心地から750mの市電に乗っていて被爆した京都の米澤鐵志さんです。
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 米澤鉄志さんは、松江さんが戦後の中国新聞労組副委員長や日鋼防衛闘争委員長としての労働運動の経験を出発点とした「階級闘争としての平和運動」を中心で担った後、ビキニの第五福龍丸事件以後、独自の領域としての原水禁運動に転換していった経過を述べ、「あらゆる国の核実験反対」という原則に立って妥協を許さなかったエピソードをを混じえ、その偉大な足跡を述べられました。
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「これからのヒロシマを考える」として、全国被爆二世教職員の会の岸本伸三さん

 

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 「ヒロシマを忘れさせないための闘い」という故石田明・被爆教師の会会長の言葉を思い起こしながら被爆二世としての決意を表明されました。
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在ブラジル原爆被爆者協会の在外被爆者からの訴えです。

 

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日本に来れないため被爆者手帳を取れず、手当てを貰えない在外被爆者の現状を告発。