B日清・日露戦争の墓等
   
 そして、ずらりと階級名が刻まれた墓石が見えます。多くは今から110年前の日清戦争の時のものです。日清戦争の直接契機となったのは朝鮮の東学党の乱(1894年 、李氏朝鮮王朝に対する農民の反乱で、日本は李朝の救援という名目で農民弾圧のために出兵(壬午の乱・甲申の乱)しました。(韓国では日清戦争のことを甲午(かぽ)農民戦争、あるいは東學革命と言います。)そして、それまで眠れる獅子と言われていた清国(中国)に勝ってしまいました。

写真は2012年10月13日撮影。
   
 

この時、日本軍の最高司令部(大本営)が置かれたのが、広島。(教科書では、講和条約の締結された下関しか出てきませんが) 

    この勝利が、その賠償金で軍備拡張に走り、日露戦争にも「勝ち」、神国日本 の神話を生み出し、戦争への道をひたすら走ることになり、51年後の破滅(原爆)までつき進むこととなりました

写真は2013年4月3日撮影。
   
   日清戦争合骨碑。
 写真は2013年4月3日撮影。
   
 明治二拾七八年戰役と刻まれています。

写真は2013年4月3日撮影。
 
   
   将校墓は日露戦争が多いです。

写真は2013年4月3日撮影。
   
 右の写真は2012年10月13日撮影。