O 長江会「合同慰霊碑
   
   

1995年3月、戦友会有志による、中国揚子江流域に駐留していた第三九師団 (藤)歩兵団、歩兵第二三一聨隊等、歩兵九大隊の「合同慰霊碑」が建てられました。

 碑文は、広島城の歩兵十一連隊碑文書き変え騒ぎがあった後ゆえか、おとなしいものになっていましたが,1999年夏、なぜかまた英霊を称える」趣旨の碑文がなぜか付け加えられました。(下にそのまま掲載

左の写真は2012年10月13日撮影。
   
 右の写真は2000年2月12日、故久保浦寛人さんらと。  
   

              

   
 

(長江会慰霊新碑文)

 

慰        霊

合同慰霊碑参拝ご案内

慰霊碑のあらましは由来碑に記していますが、関係部隊等の経緯について、ご案内いたします。

 昭和14年秋、歩兵231聯隊は編成後間もなく、ここ聖地比治山々頂から望見出来る宇品港から、万理波涛を越え中国大陸に出征、精強部隊としてその功績は高く評価されていました。爾来戦火の拡大につれ、新編成の独立大隊(碑の裏面)が誕生し、兄弟部隊として大河・長江流域の各地に布陣し、戦闘、警備に当たりました。

昭和20年6月師団の関東軍転用に伴い、聯隊は警備地区宣昌を振起部隊に託し緒戦以来多くの戦友の血潮で染めた湖北の山野に決別し北上を開始しました。

 然し戦況我に利あらず、満州国到着後、首都新京で終戦、将兵の殆どはシベリアの各地に抑留を余儀なくされました。

20代半ばの兵士が極寒凍土の果てで、祖国帰還を夢見ながら仆れたのは無念の極みです。数百余命に及ぶ犠牲者は、その殆どが、栄養失調と、これに起因する地底の炭坑作業によるもので痛恨至極です。

一方、長江沿いの各地で任務を遂行していた各独立大隊も、悪化する戦況に耐えつつ優先奮闘、武運拙く「草生す屍」と散華された数も少なくありません。

また従軍半ばで帰国、本土防衛任務遂行中、原爆で亡くなった戦友ら、慰霊碑には二千三百余命の霊をおまつりしています。

慰霊碑は平成7年3月に竣工したもので、関係各部隊(長江会)の有志の醵金と、これに協賛された各位の寄付金によるものです。

恒久平和を願う長江会は英霊の「不朽の功」を永久に伝え、戦友の真心が悠久長江の流れのよう、いつ迄も語り伝えられんことを祈念しています。

ご参拝を感謝いたします         長江会

「慰霊」の文字は山口県禅昌寺のご住職の揮毫によるものです。また裏面の鋼板に刻んだ「長江会鎮魂譜」はシベリア抑留まで行を共にした231聯隊の一兵士より英霊の功を偲ばすよすがにと寄せられたものです。


(裏面)

故国を離れ数千里 諸霊は身を鴻毛の軽きにおき 若き命を国の為に捧げられました

時は滔々と流れ 五十年 この節目を期し 我々関係各部隊相集い 合同慰霊碑を建立し ご冥福を祈ります 希わくは安らかに眠り給わんことを

第三九師団(藤) 歩兵団 歩兵第二三一聯隊

第七〇師団(槍) 歩兵第六十一旅団 独立歩兵第一〇二大隊

同        歩兵第六十二旅団   独立歩兵第一二一大隊

第六四師団(開)            独立歩兵第一三一大隊

独立歩兵第五旅団(悟)         独立歩兵第二〇七大隊

同                   独立歩兵第二〇九大隊

第一三二師団(振起) 歩兵第九七旅団  独立歩兵第五九九大隊

同                   独立歩兵第六〇〇大隊

独立混成第八九旅団(至純)       独立歩兵第五二四大隊

平成73月吉日                   戦友有志

(新碑文)

一.塩の香 ただよう 宇品港

遥かに かすむ 安芸小富士」

征きて 還らぬ 戦友の

面影 しのんで 今ぞ建つ

ああ 鎮魂の いしぶみを

二.祖国を 遠く 大陸の

果てなき 流れ 大長江

湖南 湖北の 幾山河

命 ささげし 強兵の

ああ 鎮魂の いしぶみぞ

三.風さえ凍る 地の果てに

ふるさと夢見て 愛しくも

地底に 仆れし はらからの

無念の 叫び 忘れまじ

四.春秋 ここに 五十年

平和に 栄ゆる ひろしまの

比治山たかく 日の丸燃えて

いさお  讚えん永久に

ああ 鎮魂の いしぶみぞ

         長江会