37-3-2、2001年8月27~30日、「青桐の下で」 中国語翻訳記念会、内モンゴルツァー(全写真掲載) 山田忠文さん、沼田鈴子さんを偲んで 011-020
 
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 天安門広場での私。
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 中央が山田忠文さん。(2012年12月4日、亡71歳)この時は、60歳ぐらいだったかな。まだ現役の労働者でした。

山田忠文さんってとにかく明るい人でした。
 「無責任な大言壮語吐くやつ」
「あれこれ大きな良い提案するんだが、一体誰がやるんだ」「威張ってる」なんて言われたりしましたがそれがまた面白く、嫌う人はまずいませんでした。

 出来ない大ぼら吹いても、人にそれを迫ったり、批判したり、悪口を言ったりされるのを聞いたことがありません。みんなに愛される人でした。

 ともすれば「責任感」に押しつぶされて暗くなりがちな私たちの中で、いつも明るい夢を与えてくれました。
 (13)北京、天安門前広場。
 とにかくやることがデカい。
「アジア友好学院」設立からも、沼田鈴子さんを学院長に据え、自分は理事長、小さな事務所を広島市内中心部に据えただけの(今、アジア友好学院のホームページ見たら忠文さんの自宅になっています)ほんの数人のお手伝いされる人だけによるものですが、次から次に留学生などど引き込み、「交流会(飲み会)」などを盛んにぶち上げていました。


私なんかだったら「沼田鈴子とともに歩む会」代表沼田鈴子、世話人山田忠文」なんてやるところが精一杯のところですが、あたかも正規の学校と思わせるような名前つけてね。
後ろ向きだったら、「詐欺と告訴されたらどうするんだ」、とでも言われかねなさそうな名前です。


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 「ほら吹き」なんて言う人もいたけど、今「広島アジア友好学院のホームページ」見たら、沼田鈴子さん、山田忠文さんとも亡くなっても、ちゃんとホームページは生きてます。「死ぬまで」きちんとやられていました。責任は、死んでもとられています。

この旅もそういうものです。私達市民運動やってる人の多くは自分の力量も考え、責任のとれる範囲でしかと、ともすればひそやかに行いますが。
   
 多くの人だったら奥ゆかしく「草の根」市民運動の力の範囲で、なんて考え、フフホト市を引っ張り出すなんてようしません。南敬銘副教授が勤めておられる内蒙古大外語学院訪問ぐらいのものでしょう。私なんかだったらフフホト市に公費を使って接待させる、そんな権力者の手に乗ってはいかん、あくまで民衆レベルで、なんてつい考えてしまいますが、堂々と大名旅行やってしまうんですから。私の方の発想が小さいんですね。忠文さんは大きな発想する人でした。市長選挙のことなんか考えれば、行政を使いこなす、なんて当たり前の市民の権利です。反省させられました。忠文さんには負けたわ。お蔭で楽しい旅をさせて貰いました。
 
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 こんなの見たら日本の戦争責任は、なんてつい深く考えてしまいがちなんですが、忠文さんにかかっては、そんなのもうとっくに知って知り抜いていること、思い切り楽しく見て回るんですから。
天安門広場もそうです。ここで天安門事件があったことなど知って知り抜いて、そんな暗い事一言も言われません。
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 参加した皆さんを引っ張っている忠文さん。
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 忠文さんね。ともすれば「責任」の重圧に押し潰されがちの、ついクヨクヨしてしまう私なんか、会って話すとほっとしていました。
 昨年2月の「沼田鈴子さんを偲ぶ会」でもお蔭で、大分明るい気持ちにさせていただきました。下手すれば暗くなってしまうそのような「偲ぶ会」でも忠文さんの手にかかってしまえば明るい物になります。
 昨春、「8・6」の準備に入った頃、どうにも考えが収まらなくなった時には、つい「忠文さんと一杯飲みたいな」なんて思っていました。そんな時、忠文さんが体調崩され「8・6実行委員会」に出て来れなくなった、と聞いた時は、もう絶望的にもなったりもしました。多くの方のお蔭で、昨年も「8・6」なんとかやれましたが。


 
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   広島の多くの人にバンバン夢を与えて下さった山田忠文さん。勇気づけて下さった山田忠文さん。そういう意味では頼りがいのある方でした。
 
とても忠文さんの真似は出来ないけど、夢を持て、励まされるのではなく励ませ、なんて、なんて言われているような気がします。
 
 忠文さんの自宅は広島市安佐北区安佐町の飯室、私が広島市役所に就職したころは、安佐町といえば、とても広島市なんて都市の一部になるなんて考えもつかない田舎です。学生の時は、バスセンターから長い事バスに揺られてやっと着くド田舎です。広島市に編入された頃、仕事である民家を訪問した事がありますが、長い事人の顔を見たことが無いおばさんが大喜びで迎えてくれ、タケノコや野菜あれこれタンと下さったのを覚えてます。今は、大分開け交通の便も良くなったようですが、やはり市内中心部まで出るには結構遠いところです。市内に出るには、私ほどまではいきませんが結構お金と時間がかかるところです。家が遠い、なんて私にはこぼしておられましたが、他の方のには言われるようなことは無かったでしょう。
「いつも明るい」方でしたが、実際にはどうだったのか。山口県評の議長やった私の実父なんかは、外では評判良かったのですが、そのしわ寄せは全て私達家族にかかっていました。外でいい顔して内では全くどうしようもない親でした。家ではとても尊敬など出来ない親でした。
忠文さんの場合は、どうだったのかなー、なんて自分に照らして考えてしまいます。
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 宿舎に戻られた沼田鈴子さん。私も1994年頃から、沼田鈴子さんの秘書団の一人のようになっており、沖縄、韓国、函館等結構アチコチ行ってましたから。
ただ山田忠文さんとご一緒したのは、この時が最初で最後だったですね。
 広島市内では、しょっちゅうお会いしていまし
から。
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 参加された皆さんのお名前は覚えている方もおられますが、控えさせていただきましょう。