37-3-1、2001年8月27~30日、「青桐の下で」中国語翻訳記念会、内モンゴルツァー(全写真掲載) 山田忠文さん、沼田鈴子さんを偲んで 001-010
 
 (1)2001年8月27日、広島空港から北京経由で中国内モンゴル自治区フフホト市に向かいました。
 
記憶ははっきりしませんが、これは27日の夜、北京にの宿舎に着いた時のものと思います。


(全240枚の写真は下の「次へ」か、この目次をクリックして下さい。)
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27日夜の北京の宿舎(ホテル)での夕食でしょう。ホテルの外だったかもしれませんが記憶ははっきりしません。
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 この企画は「広島アジア友好学院」理事長として、沼田鈴子さんの活動を支えておられた山田忠文さんが企画されたものです。
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 (5)右が私(戸村良人)です。当時55歳、広島市役所(安佐南区役所)の職員でした。
 
すでに「ヒロシマの今から過去を見て回る会」のホームページを立ち上げていましたので前ページのような報告を記憶の薄れる前に記載しました。

「行動の写真集」の方は、2001年9・11同時多発テロの直後のことですから、このツァーの1ヶ月後というところでしょうか。
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 (7)左がご存じ沼田鈴子さん(2011年7月亡)
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 参加者は11~13名だったかハッキリ覚えていません。ほとんどが山田忠文さんの「広島アジア友好学院」の活動でのお知り合いだったように記憶しています。 山田忠文さんの親戚関係の女性も参加されていました。

もう12年前のことですので、このように写真出させて頂いても良いのではないかと考えました。皆さん、これを見れば懐かしさがこみあげてくるはずです。
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北京まで迎えに来られた、通訳のウリさん。広島留学中に沼田鈴子さんと知り合いになられ方と聞きました。
 (10)28日朝、北京天安門広場を観光
 
私がこの一行に加わったのは、広島市役所勤続30年で金一封と特別休暇が出たので、山田忠文さんに「どこか連れて行け」といったところ、「一緒に行かんか」と言われて気軽に参加させて貰った訳です。

 山田忠文さんとは、山田さんが1968年頃三菱広機の反戦派労働者としてデビューされた頃から知り合いでしたから。 親しくなったのは1970年代の中ごろからだったでしょうか。