47.御幸橋の碑(中区東千田町二丁目13)  
   
    御幸橋西詰め、派出所跡の反対側に建つ記念碑。人間国宝と呼ばれる備前焼の藤原雄さんの協力を得て1990年つくられた。1885年木橋として架けられて以来、橋を渡り宇品から戦地に赴いた兵士は百万人を超える。多くの人にとって「帰らざる橋」になった。被爆二日後、橋は爆風に欄干を失い無残な姿になっていた。積み重ねられた屍の焼ける煙、そこから流れる地獄の異臭、その向こうには瓦礫の街が一望千里であった。失われたものへの鎮魂と平和のための碑は静かに西南の彼方を望んでいる。御幸橋が昨日を忘れず、明日への希望をこめた夢の架け橋になることを、碑はいつまでも祈りつづけることであろう。
   
   

うしろに(右に)

(タイムカプセル)

共に生きた人々と今日の姿をとどめて

五十年先の移り変わりが

天、地、人の依存を深め

かけかえのないこに地球が

傷つけられず

豊かで明るい連帯の社会が

創られる願いをこめて

一九九〇年七月十七日

これを納入する

納めてあるもの

一、、広島市の様子

一、庶民生活の様子

一、その他

また、「みゆきばし ここまでの歩み」という碑もあります。全文を下に掲載します。

   
御幸橋欄干

写真はいずれも2012年3月3日撮影。

                  

みゆきばし ここまでの歩み

御幸橋の架け替えにあたり

橋の親柱が

無造作に投げ捨てられることは

この橋に思い出を持つ地元として

無視しがたいものがあったので

強く保存を要請したが

三柱しか確保できなかった

 

軍都であり大本営が設置されたこの地は

海外派兵の兵站基地であった

日清・日露・各事変・第一次第二次世界大戦で

百万人以上の将兵が

故郷の父母、妻子、恋人を思いつつ

万感こもごも胸に迫る思いを秘め

歓呼の声に送られて御幸橋を渡り

幾十万の将兵は

再びこの橋に帰ることはなかった

 

八月六日、原爆の閃光の下に

傷つき倒れた人々は

家族の安否を気づかいながら

暁部隊の将兵に助けられて御幸橋を渡り

似島の救護所に収容され手当てを受けたが

九割を越える人々が

再びこの橋に帰ることはなかった

 

この悲惨さをまのあたりに見

体験した地元の人達は

再び「帰らざる橋」が造られないよう

念じ続けている

去る年、ニューヨークの

国連本部において展示された

御幸橋たもとの被爆者救護の写真が

各国の人々の注目を集めていた

その後八月六日の日に

外国の報道記者たちが

この橋を取材している姿を見た

折しも御幸橋架け替え工事中の為

ありし日の姿を伝えるものは無くなっていた

 

ともすれば戦争や原爆の体験が風化しようとする時

平和を念ずる思いを込めて

多山報恩会のご厚意をもとに

このモニュメントの除幕式が行われる

誠に感無量である

かけがえのないこの地球を

いかなることがあろうとも

おごりやわがままで傷つけてはならない

失ってはならない

この願いを強く念じ

協力してくださった多くの人々に感謝する

 

一九九〇年七月二十七日

文責 宮本正夫