45.穴神社社殿 忠魂碑と忠魂座碑  (南区丹那町23−11・丹那西公園内・穴神社前) 

県病院前から広島大橋へ行く道の元宇品線を渡ったらまっすぐ行くと呉の方まで行く黄金山通りが出来ているが、ちょっと判りにくくなっているが、左の旭町下水ポンプ場の横の橋をそのまま東へ走って行く と、左手に丹那西公園を見ることが出来る。

 山手の方を見ると神社が見える。

写真はいずれも2012年10月16日撮影。
   
   

神社に登る階段の下の掲示板に、広島市の被爆建物説明プレートと穴神社の由緒が張ってある。

階段の穴神社門柱には大正十年建之とある。

   
 

階段の右に忠魂碑が、左に忠魂座碑が立っている。

ここでは、忠魂碑が戰役記念碑の性格を持ち、忠魂座碑の方が忠魂碑らしい。

(表) 忠魂碑  陸軍大將大迫尚道謹書

台座 (裏) 鋼板 戰死病没者並戰役從軍者 年月日不明 忠魂坐碑より後は確か

戰死病没者の部 明治二十七年 日清戰役 陸軍輜重輸卒 菅太郎  明治三十八年 日露戰役 勲八等歩兵一等卒松本勝太郎 等4〜5名

戰役從軍者の部 明治廿七八年 日清戰役 陸軍輜重兵上等兵 廣澤鹿松 勲八等輸卒 河本徳松等8名 明治三十三年 北清事変 勲七等輸陸軍歩兵一等卒 木村吉松等5名 勲八等 同 池岡鶴松等4名 明治三十八年 日露戰役 勲六等 同 三等軍醫 杉岡岬 等56名  久保忠歌謹書 蓮形光利謹書等

 (左) 鋼板 欠けている (右) 発起人 20名の名前

(朝鮮人部隊にいた方が来日して、先の戦争で野営した場所を市内中探し回ったところ、ここだったという証言がある。)

 
   
   

忠魂坐碑  

(表) 忠魂坐碑 

(右) 明治三十九年八月建之 丹那區

(左) 明治二十八年五月病死陸軍歩兵卒 菅市太郎君 明治三十七年七月戰死陸軍歩上等兵 山本實郎君 明治三十七年十二月廿三日病死陸軍歩一等卒 松本勝太郎君

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 ※建立年月日 不明

 ※建立の由来 日清・日露戦争による、戦死病没者並びに戦役従軍者をまつったものである。

 ※その他、特記事項 忠魂碑の左手に忠魂座碑があり、明治39年8月建之丹那町となっている。

             
   
 

右のような狛犬、石燈籠があり、大正九年十月吉日」とある。

 

 

 
   
   

左は「穴神社改築記念碑」裏は「改築寄附者芳名」とある碑。

横に「大正九年十月建之」と刻まれている。もう一つ同様の趣旨の碑がある。

   
 
 
 

上にあがると被爆建物穴神社の社殿がある。階段下の掲示板には次のようにある。

「被爆建物 被爆時の名称 穴神社(爆心地から3,840m)

階段上の社殿は、昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。 広島市」

 
   
   

「穴神社

祭神 少名毘子古那神

相殿神 猿田毘古神、弥都波能売神、奥都日子神、奥都日売神、大年神、大穴牟遅神

例祭 十月第二日曜日(旧例祭日旧暦八月十八日)

境外社 稲生神社(祭神 宇迦之御魂神)、恵比寿神社(祭神 事代主神 鎮座地 南区丹那町)

御旅所 南区丹那町 胡神社

由緒 享保十六年(一七三一)創立、当浦は早くより漁民居を構え、専ら漁を事としたが、たまたま疫病流行し、よって神を祀り神助を仰ぐと漸く病む者無きに至る。それにより社殿を建て崇敬の誠を致す。「芸藩通志」には安那社と記す。

特殊神事 「湯立て」例祭日に斎行。

神社にご用の際は邇保姫神社までお願い致します。

電話二八一−四五三八 広島市南区西本浦町十二−十七

             
   
   社殿から東の小さな階段を降りて行くと「倉田百三文学碑 出家とその弟子 完成の地」という碑が立っている。
 
 

「倉田百三は、明治二十四年庄原市で生まれ、大正から昭和にかけて活躍した有名な文学者です。

代表作である『出家とその弟子』は、大正五年から書き始めましたが、同年十一月、医師の勧めで静かな漁村であった丹那の民家(この隣にあった谷口花松氏宅)に身を寄せ、八カ月の療養中に病気と闘いながら著作した作品で、二十五歳の時完成させました。

 この作品は、当時ベストセラーとなり翻訳されてフランスの文豪ロマン・ローランも絶賛しました。

 この碑は、この世界的名作が百三ゆかりの地、丹那で生まれたことを記念し、後世に伝え残すために建立しました」

ちなみに門柱には、大正十年四月建之 丹那區」と刻まれている。