2001年8月27〜30日、内モンゴルツァー(1)山田忠文さんの写真のみ、49枚 (1)〜(10)
 
 (1)2001年8月27日、広島空港から北京経由で中国内モンゴル自治区フフホト市に向かいました。
私がこの一行に加わったのは、広島市役所勤続30年で金一封と特別休暇が出たので、山田忠文さんに「どこか連れて行け」といったところ、「一緒に行かんか」と言われて気軽に参加させて貰った訳です。
 山田忠文さんとは、山田さんが1968年頃三菱広機の反戦派労働者としてデビューされた頃から知り合いでしたから。 親しくなったのは1970年代の中ごろからだったでしょうか。

記憶ははっきりしませんが、これは27日の夜、北京にの宿舎に着いた時のものと思います。
 (2)
  27日夜の北京の宿舎(ホテル)での夕食でしょう。ホテルの外だったかもしれませんが記憶ははっきりしません。


参加者は11〜13名だったかハッキリ覚えていません。ほとんどが山田忠文さんの「広島アジア友好学院」の活動でのお知り合いだったように記憶しています。 山田忠文さんの親戚関係の女性も参加されていました。

もう12年前のことですので、このように写真出させて頂いても良いのではないかと考えました。皆さん、これを見れば懐かしさがこみあげてくるはずです。
 (3)
 中央が山田忠文さん。(2012年12月4日、亡71歳)この時は、60歳ぐらいだったかな。まだ現役の労働者でした。

山田忠文さんってとにかく明るい人でした。
 「無責任な大言壮語吐くやつ」
「あれこれ大きな良い提案するんだが、一体誰がやるんだ」「威張ってる」なんて言われたりしましたがそれがまた面白く、嫌う人はまずいませんでした。

 出来ない大ぼら吹いても、人にそれを迫ったり、批判したり、悪口を言ったりされるのを聞いたことがありません。みんなに愛される人でした。

 ともすれば「責任感」に押しつぶされて暗くなりがちな私たちの中で、いつも明るい夢を与えてくれました。
 (4)北京、天安門前広場。参加した皆さんを引っ張っている忠文さん。

 とにかくやることがデカい。
「アジア友好学院」設立からも、沼田鈴子さんを学院長に据え、自分は理事長、小さな事務所を広島市内中心部に据えただけの(今、アジア友好学院のホームページ見たら忠文さんの自宅になっています)ほんの数人のお手伝いされる人だけによるものですが、次から次に留学生などど引き込み、「交流会(飲み会)」などを盛んにぶち上げていました。


私なんかだったら「沼田鈴子とともに歩む会」代表沼田鈴子、世話人山田忠文」なんてやるところが精一杯のところですが、あたかも正規の学校と思わせるような名前つけてね。
後ろ向きだったら、「詐欺と告訴されたらどうするんだ」、とでも言われかねなさそうな名前です。

 (5)
「ほら吹き」なんて言う人もいたけど、今「広島アジア友好学院のホームページ」見たら、沼田鈴子さん、山田忠文さんとも亡くなっても、ちゃんとホームページは生きてます。「死ぬまで」きちんとやられていました。責任は、死んでもとられています。

この旅もそういうものです。私達市民運動やってる人の多くは自分の力量も考え、責任のとれる範囲でしかと、ともすればひそやかに行いますが 
 
 多くの人だったら奥ゆかしく「草の根」市民運動の力の範囲で、なんて考え、フフホト市を引っ張り出すなんてようしません。南敬銘副教授が勤めておられる内蒙古大外語学院訪問ぐらいのものでしょう。私なんかだったらフフホト市に公費を使って接待させる、そんな権力者の手に乗ってはいかん、あくまで民衆レベルで、なんてつい考えてしまいますが、堂々と大名旅行やってしまうんですから。私の方の発想が小さいんですね。忠文さんは大きな発想する人でした。市長選挙のことなんか考えれば、行政を使いこなす、なんて当たり前の市民の権利です。反省させられました。忠文さんには負けたわ。お蔭で楽しい旅をさせて貰いました。
こんなの見たら日本の戦争責任は、なんてつい深く考えてしまいがちなんですが、忠文さんにかかっては、そんなのもうとっくに知って知り抜いていること、思い切り楽しく見て回るんですから。
天安門広場もそうです。ここで天安門事件があったことなど知って知り抜いて、そんな暗い事一言も言われません。

  (6)忠文さんと私。山田というのは多い姓ですので、もっぱらお名前でよんでいました。
 

 

 (7)記念写真撮ったりしています。
 これは北京のどこか有名な観光地でしょうね。何というところだったのかは覚えていません。28日の朝でしょう。

29日朝の、この観光の後、北京から内モンゴルのフフホトに飛んだのではなかったかと思いますが。
  忠文さんね。ともすれば「責任」の重圧に押し潰されがちの、ついクヨクヨしてしまう私なんか、会って話すとほっとしていました。
 昨年2月の「沼田鈴子さんを偲ぶ会」でもお蔭で、大分明るい気持ちにさせていただきました。下手すれば暗くなってしまうそのような「偲ぶ会」でも忠文さんの手にかかってしまえば明るい物になります。
 昨春、「8・6」の準備に入った頃、どうにも考えが収まらなくなった時には、つい「忠文さんと一杯飲みたいな」なんて思っていました。そんな時、忠文さんが体調崩され「8・6実行委員会」に出て来れなくなった、と聞いた時は、もう絶望的にもなったりもしました。多くの方のお蔭で、昨年も「8・6」なんとかやれましたが。


  忠文さんの自宅は広島市安佐北区安佐町の飯室、私が広島市役所に就職したころは、安佐町といえば、とても広島市なんて都市の一部になるなんて考えもつかない田舎です。学生の時は、バスセンターから長い事バスに揺られてやっと着くド田舎です。広島市に編入された頃、仕事である民家を訪問した事がありますが、長い事人の顔を見たことが無いおばさんが大喜びで迎えてくれ、タケノコや野菜あれこれタンと下さったのを覚えてます。今は、大分開け交通の便も良くなったようですが、やはり市内中心部まで出るには結構遠いところです。市内に出るには、私ほどまではいきませんが結構お金と時間がかかるところです。家が遠い、なんて私にはこぼしておられましたが、他の方のには言われるようなことは無かったでしょう。
「いつも明るい」方でしたが、実際にはどうだったのか。山口県評の議長やった私の実父なんかは、外では評判良かったのですが、そのしわ寄せは全て私達家族にかかっていました。外でいい顔して内では全くどうしようもない親でした。家ではとても尊敬など出来ない親でした。
忠文さんの場合は、どうだったのかなー、なんて自分に照らして考えてしまいます。   
  (8)
 中国語に翻訳された内蒙古大外語学院南敬銘副教授のお顔が見えます。(後ろの山田忠文さんの右)
 フフホトの空港までお迎え頂いたのではなかったかと思い出されます。


昼食後場所を変え、南敬銘さんらによる歓迎会だったものと思われます。

 (9)訪問団一行代表の山田忠文さんの挨拶

 左は通訳のウリさん。
 (10)「青桐の下で」中国語本についてお話しされているところ。