1.済美国民学校の碑 (中区八丁堀7−14・広島YMCA内 | |
YMCA2号館の玄関の外、入口に背を向けて、ひっそりと立っています。 ここは、高級軍人や官僚の子女がかよっていた済美国民学校(小学校・幼稚園)があったところです。 1872年創設の開成舎を前身とする陸軍偕成(行)社(豪華な庭園や食堂等を備えた将校クラブ、当初は次の明治天皇御用井あたりにあったようです)の経営するこの学校の歴史は、原爆投下によって幕を閉じました。 被害は大きく、給食日のため登校していた児童、職員、駐屯兵あわせて160人以上、骨も残さず全滅。そのため被害の内容も全く不明。 |
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日清戦争時、明治天皇の宿舎「御便殿」はこのあたりにあったようです。 入口に背を向けた男女児童の像、壁面を飾る「墓標」のの詩はまさに「原爆ドーム」だけを残して、被爆の思い出がどんどん消えていく現在の悲しいヒロシマに何かを訴えているかのようです。 |
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「墓標」の詩は峠三吉の作品。 繁華街の中、顧みる人も少ない。YMCA内で集会する人も殆ど気づきません。この詩が胸にじんときます。碑建立文(下に)とともに傍らに、済美学校付属幼稚園と書かれた門柱が残っています。被爆遺跡です。 なおこの碑の裏(道路からは表)に被爆者が書いた絵の「陶板画3号碑」が2003年8月6日設置されています。これもご覧あれ。なお「陶板画」はどんどん設置されており、「陶版画7号碑」は2005年1月29日西区の福島生協病院前に設置されています。 また、道路沿いには比治山で被爆した被爆はまゆうが、3号館前の柱には原爆瓦とローマ法王平和アピールが埋め込んであります。 |
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済美学校碑建立碑文 済美学校は明治五年二月能美圓来先制により創設された開成社を前身とする 明治二十六年済美学校となり 人格的訓育を主眼においた教育は全国に多数の英才を輩出した 昭和二十年八月六日 原子爆弾により校舎は壊滅し 職員生徒多数死没した 同年十二月は以降となり 七十三年の歴史を終えた 洵に懐旧の情にたえず 校舎あとに記念碑を建て済美の偉業を後世にとどめる 昭和四十五年八月六日 済美学校卒業生及旧職員一同 |
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なお、2002年1月、このホームページを見られた、ここの卒業生よりお便り頂きましたので、下に紹介しておきます。戦前の雰囲気が良く伝わります。 (済美学校卒業生からのお便りー2002年1月) 初めてメールさせていただきます。 終戦の1年ほど前に、父の勤務先が宇品の船舶部隊から北九州の門司の司令部に転任になりましたので、それを機会に我々家族は福山に疎開したため原爆には遭いませんでした。 済美学校は終戦と共に廃校になりましたが同窓会は今も有りまして、広島と東京で毎年盛大に開かれております。 叉、そのアルバムに載っておりますが、昭和天皇の弟君である秩父宮様が済美の校庭で小学生の分列行進の査閲をされている写真も有りました。 この済美学校は正式な校名は「廣島陸軍階行社付属済美学校」でした。勿論我々が習ったのは国民学校の教科書でしたし、心構えも「子供ながらも日本の小国民としての意識を持つように」と教わりました。 学校で一番偉いのは校長先生なのですが実はその上に幹事長閣下という人が居られて陸軍中将か少将くらいでした。卒業時には男女各1名首席の生徒に「校主賞」がこの幹事長閣下から出されていました。 話がいささか脱線しそうになりましたが、その同窓会の席上で廣島には原爆ドームと宮島の2つの世界遺産があるとか、東京以外で帝国議会が開かれたのは廣島だけだとか、自慢話に華が咲きましたので「帝国議会」で検索しましたところ有り難いことにこのホームページを見つけた次第です。真に感激しました。 |
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