繁華街の被爆した日本銀行裏にも「頼山陽記念館」が1995年建て替えられています。教科書でも余りたいして取り上げられない「頼山陽」が広島で出てくるのはなぜでしょうか。130年以上前の明治維新の話になりますが、広島の浅野藩は、隣の山口県の毛利藩に比べ、明治維新で日和っていたため、戦前では余り誇るべき先達者がいなかったのです。唯一、その50年くらい前に広島で幽閉中に「日本外史」という皇国史観の書物を書いた人が、尊皇倒幕運動の先駆けとなったとして引っ張りだされ、広島の誇りとされて、1932年に建てられたものです。
「被爆建物 被爆時の名称 山陽文徳殿(爆心地から1,820m)
左の写真は2013年4月3日撮影
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