E 日清戦争合骨碑
   
  「北清事変慰霊碑」の前にあるのが以前からの「日清戦争合骨碑」、日清戦争は「猖厥1万名に達する疫病との戦いであった、国内に侵入を防ぐため広島陸軍病院と隔絶して、離れ島の似島に避病院を特設し防疫の万全を期した・・・が、死没者名簿を紛失した」という説明碑文が数年前までありました。今は戦地で亡くなった兵士は、大きな合骨碑に刻み込まれています。1998年、奉賛会から貰った資料によると日清戦争の戦死、戦傷死1,530名に対して、なんと戦病死は10,480名で、ほとんど戦地での伝染病というから、今さらながらあきれます。日清戦争の時から、兵坦無視の、突撃精神のみの無茶な闘いが、58年前の戦争まで続き、多くの悲劇を生み出しました。「木口小平」の名は戦地の遺体は打ち捨てられて名簿だけで帰ってきており、大きな合骨碑の方にあります。個人別の墓石の方を読めば「戦病死」とあるのが多いのも判るでしょう。

写真は2013年4月3日撮影。
   
 「個人墓」はすべて「戦病死」とは驚きます。

写真は2013年4月3日撮影。