G フランス人の墓(義和団の乱・・・・・・日本では北清事変とよんでいた)
   
    この七基あるカトリック式のフランス人の墓は「義和団の乱」の鎮圧で日本軍と一緒に中国民手に戦ったフランス兵の墓です。日本軍の友軍としてのフランス軍人が日本(広島の陸軍病院)で戦病没し、それが陸軍墓地に手厚く弔われることになったのは当然でしょう。
左の写真は2012年10月13日撮影。
   
  歴史とはは皮肉なものでで、フランスは第2次大戦ではドイツに真先に降伏して、カイライ政府もあり、日本人からはあまり憎しみの対象になりませんでした。敗戦後、このフランス人の墓の存在があったため 占領軍もここは壊さなかったため、それを基にここに陸軍墓地が再建されました。
  ここにだけ、遺骨が眠っています。(他は墓石だけ)

右の写真は2013年2月25日撮影。
 
   
 

 戦後も広島市日仏協会後には、フランス軍艦が来るたびに参拝が行われたようですが、2005年7月6日フランス大使も出席して、建設105年目にして初の慰霊祭が行われたと報道されました。(2005年7月7日中国新聞) 2008年6月17日の中国新聞では、「北清事変の仏兵を国挙げ治療、埋葬された兵士の子孫ら7人、陸軍墓地での20日の記念式典に出席」と報じられています。

なお、長崎ではこの時期、負傷した850名ものフランス兵が運ばれ、31名が死亡、今も長崎市の国際墓地手厚く葬られているそうです。(2008年4月3日朝日新聞長崎版)

左の写真は2013年2月25日撮影。
   
 右の写真は2013年2月25日撮影。