6.比治山陸軍墓地(南区比治山公園5)
   

(さて、陸軍墓地に入りましょう。ここは、これを中心で、139年前にタイムスリップします。原爆は66年前、どういう訳で広島に原爆が落とされたのか、軍都広島・軍国日本の歴史の勉強です。この項、少々長すぎる説明文ですが、これを読んで理解していただければ、あなたも近代史の大家です。奉賛会から分厚い資料を貰いさらに正確に、詳しくなってしまいました。爆心から約1.2Kmです。)

 比治山陸軍墓地は、今から139年前の1872年(明治6年)、現在のNHKの鉄塔から放射線影響研究所のあたりまでの一帯にわたって、創られました。太平洋戦争までは、沖縄を除く、全国46都道府県・4505名の墓が一基一基整然と建立され(シベリア出兵まで)ていました。戦地で病気になった兵士は広島の陸軍病院等に送られ、死亡すると、火葬が普及するまでは、遺体を将兵の故郷に帰さず、広島で土葬し、遺族達は、なけなしの遺族手当等で墓地の用地を買い、墓をここに建てたのです。(広島陸軍病院等の戦病死者が個別墓碑、1,111人の戦地での死者は部隊合葬墓碑ということです)


左の写真は2000年2月12日、故久保浦寛人さんらと。 
   
 2002年8月6日フィールドワークにて。
   
   現在ある3,533の墓石(戦病死者)の内2,125柱は、今から110年前の1893年〜1994年の日清戦争時の物。他は北清事変(義和団事件)時のもの約635、日露戦争時のもの110、あとはその他のもの(奉賛会資料)で、将校墓は日露戦争時にうちのおとっちゃん偉かったんだというばかりに競って大きい墓を建てたのが多いといいます。1919〜20年のシベリア出兵までで、映画に出てくる白木の箱で遺骨が帰ってくる(余りにも戦死者が多くなったこともありノモンハン事件以降の五千柱は下の忠魂墓碑に入れる計画)のは、日中戦争からです。(忠魂墓碑が完成・納骨されたのは戦後の1949年ですが。)

陸軍墓地の受難の歴史は、1944年から軍部がここの墓を忠霊塔一基への合同葬(結局間に合わず)という形での整理(1945年1月〜4月)をはじめ、代わって高射砲陣地のみが完成使用されたとのことから始まり、戦後は占領軍がABCCの陸軍墓地への移転を強行して始まりました。掘り出された遺骨は南側の斜面の谷間に捨てられましたが、報道は一切許されませんでした。日本軍部・政府から見捨てられ、占領軍から破壊されたこの陸軍墓地が現在の姿に整理されたのは1960年のことです。

の写真は2013年2月25日撮影。

アジア大会を前に、この陸軍墓地をどうしようかと広島市(管理は市)は苦慮したようですが、差し障りのある文章が多すぎ、結局碑文の書換えはなされませんでした。1995年1月、広島市により「北清事変」を「義和団事件」とする説明板が設置されました。長江会新碑文はお構い無しのようです。また40年以上前初めて訪れた時は、雑然と並べられ、将校の墓の大きさが兵卒の墓を圧倒しており「死んでも差別するのか」と思わせるような感じでした。「英霊を祀る」立場の「奉賛会」の人も、この差別には立腹しているようです。今は、合骨の墓が建てられ、将校の墓と兵卒の墓、さらに新たに軍属・軍役人夫等と分けてスマートに整理されていますが、やはり差別を感じざるを得ません。

2004年4月4日、ここで合同追悼式が行われた、と翌日の中国新聞が報じており、さらにフランス人墓地については、2005年7月6日フランス大使も出席して、建設105年目にして初の慰霊祭が行われたと報道され、2008年6月20日には4人のフランス兵子孫が参拝と報道されています。

歴史の順序で見て見ましょう。

右の忠魂墓碑の写真は2013年2月25日撮影。