26.日本赤十字原爆病院      (中区千田町一丁目9−6) 
   
 広島赤十字病院は1939年4月に日本赤十字社広島支部病院として設立され、同年5月、広島陸軍病院赤十字病院と改称しました。爆心地から1500m。鉄筋コンクリート三階建てのこの病院は、外郭のみを残す無惨な姿になりました。約250人の軍患者をはじめ、医師、看護婦、看護婦生徒の多数が負傷、死亡。被爆直後から玄関は、多数の負傷者で埋まり、状況は混乱を極めたといいます。

 左は旧日本赤十字病院(1992年撮影)
   
 (千田町二丁目5−46)

日本赤十字・原爆病院
メモリアルパーク

このメモリアルパークは、昭和20(1945)年8月6日の原子爆弾投下により多くの殉難者をだしながら、献身的に被爆者の救護にあたった広島赤十字病院(当時)の絵次、看護婦等の職員や看護婦学生の赤十字精神を後世に伝えると共に、殉難者の慰霊と被爆体験の警鐘を通じて平和を希求する拠点として整備したものです。
 パーク内にある病院の被爆窓枠と壁、原爆殉難者職員並びに戦時事変戦没者合忌碑、赤十字国際委員会会長のメッセージ碑、ジュノー博士顕彰レリーフなどは、病院の新旨建設に伴って病院敷地内から移設しました。

平成25(2013)年7月

日本赤十字社広島県支部
広島赤十字・原爆病院

写真は2003年7月3日撮影
   
(説明文)

 被爆直後の広島赤十字病院
 昭和20(1945)年8月6日の原子爆弾投下により、本館・中央病棟、北病棟の鉄筋コンクリート造の壁だけは残りましたが、室内は窓ガラスなどの破片が吹き荒れ、無残に破壊されました。また、看護学校宿舎などの木造施設は前回または全焼し、入院患者だけでは無く病院関係者や看護婦学生にも多くの死傷者が出ました。
 このような被害にもかかわらず、生き残った医師や山口l区在氏薬剤師、看護婦等の職員と看護学生は不眠不休で、殺到する被爆者の救護にあたりました。
 一面焼け野原と化した市内にあって、診療を続ける病院にかかげられた赤十字旗はひときわ輝かしく見え、さながら”廃墟の中のオアシス”のようだったとの言葉が残されています。
 被爆しt本館は平成5(1993)年まで診療に使用されていましたが、老朽化により解体されました。本館の「爆風で歪んだ鉄製の窓枠」と中央病棟の「窓ガラスの破片が突き刺さった跡が残る壁」は大くの市民の要望を背景にした広島市被爆建物保存・継承事業の適用第1号により保存されました。

右は「爆風で歪んだ鉄製の窓枠」


写真は2003年7月3日撮影
 
   
  左は 「窓ガラスの破片が突き刺さった跡が残る壁」

写真は2003年7月3日撮影
   写真は2014年5月7日撮影
 左には「平和の祈り」、多くの病院職員の名前をきざんだ碑、右は赤十字国あい委員会「広島YWCA ヒロシマの今から過去を見て回る会」世話人会長 レオポルド・ボアティと刻まれた1959年に設置されたフランス語で書かれた碑。

写真は2003年7月3日撮影
   写真は2014年5月7日撮影
   写真は2014年5月7日撮影
   写真は2014年5月7日撮影
   
 放射能に斃れし少年無傷なり ゲートルを巻くあと

日赤病院の玄関前の丸井花壇の上に、材木のように
重ねて置かれた中学1,2年生の遺体がありました。
名札には広島二中と書いてありました。
放射状に重なられた中学生の遺体には
あけどはなく無傷のまま息絶えていました。
この中の何人の遺骨が母の胸に抱かれたのでしょう。

1945(昭和20)年8月7日 河野きよみ

当時市内では多くの児童生徒が建物疎開などに動員され、約6000年が被爆死しました。
広島2中生は爆心地近くの1年生を中心に298人が亡くなっています。その半数近くの遺骨は不明なままです。

ATOMIC BOMB MEMORIAR No.9 
被爆60年 AUGUST 6.2005

被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会 /広島赤十字・原爆病院


2013年7月12日撮影
    
  1993年4月、原爆ドームが死の生き証人なら、赤十字病院は生への希望の生き証人だという多くの反対の声を押し切ってついに取り壊され、原爆でゆがんだ窓枠部分が、L字型に切り取って高さ1.5メートルの台座に据えつけられているだけとなっています。(2013年7月に移設される前の窓枠)

写真は2009年8月6日のフィールドワークで。
   
 2008年8月6日のフィールドワーク。
   
 2008年8月6日のフィールドワークで。
   
   なお、病院内にも玄関右手には「マルセル・ジュノー」博士のレリーフが飾ってあります。(左)

写真は2013年7月12日撮影。