9−3、.2004年8月6日フィールドワーク「宇品・比治山方面」(21)〜(30)

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  広島電鉄車庫に来まし。中を覗いてみると、廃止された全国の電車や、ドイツの電車等様々な電車の中に、今も現役で走っている4両の「650型被爆電車」の二つを見ることが出来ました。 
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   運転席の後ろには「650型電車の由来」の説明板に「人類史上初の原子爆弾により被爆した」とあります。
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   「あの日、市内を歩いていたら横倒しになった電車があった。中を覗いてみると、運転士は運転の姿勢のまま、乗客は吊り革にぶらさがったまま、動かなくなっていた。まるでロウ人形を見ているような不気味さだった。」と被爆者の手記にあります。実際に乗ってみて味わいました。
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   日本赤十字病院の窓枠です。ここに来るまでに、左手に栗原貞子さんの「生ましめんかな」の詩で有名な、1989年取り壊された広島貯金局の跡の新築マンションがありました。右手には、被爆建物の理学部一号館が残っていますが時間の関係でバスから見るだけにしました。
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   広島赤十字病院は1939年4月に日本赤十字社広島支部病院として設立され、同年5月、広島陸軍病院赤十字病院と改称しました。爆心地から1500m。鉄筋コンクリート三階建てのこの病院は、外郭のみを残す無惨な姿になりました。約250人の軍患者をはじめ、医師、看護婦、看護婦生徒の多数が負傷、死亡。被爆直後から玄関は、多数の負傷者で埋まり、状況は混乱を極めたといいます。
 1993年4月、原爆ドームが死の生き証人なら、赤十字病院は生への希望の生き証人だという多くの反対の声を押し切ってついに取り壊され、原爆でゆがんだ窓枠部分が、L字型に切り取って高さ1.5メートルの台座に据えつけられているだけとなっています。
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新しく出来た慰霊碑には水(犠牲者が叫んだ)がしつらえてあります。

 

ここから「ふりかえりの塔」の碑文を車内で読んで、最後の「浄国寺」へ。

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 中国新聞社の裏、浄国寺には古い歴史と広島のお寺の特徴が全て備わっています。これは西地方西新町町民慰霊碑。
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   その右。防空慰霊隊の墓標
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びっしりと立てられているのは、原爆で一家全滅になった無縁の墓

 

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原爆で傷ついた墓石、そして昭和二十年八月六日と記された墓もあります。

「おこりじぞう」を連想させる「被爆六地蔵」もありましたが説明に夢中で、シャッター押すのを忘れていました