9−2、.2004年8月6日フィールドワーク「宇品・比治山方面」(11)〜(20)

 (11)  
   近藤芳美さん自身の体験も踏まえた裏の碑文です。

近藤芳美さん自身の体験も踏まえた裏の碑文です。

宇品に、陸軍運輸部が置かれ、一筋の石組みの突堤が沖に向かっていた。広島の市民はそれを陸軍桟橋と呼んだ。そうして日清戦争から太平洋戦争にかけて、兵らはこの突堤から沖に待つ輸送船に乗り移り、遠い大陸と島の戦場に送り出されるのが例となっていた。彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻らなかった。 戦争が遠く過ぎ、あたりは埋め立てなどにより姿を変えたが、今、不当の片隅の岸にわずかにかっての面影をとどめる。わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がなければならない。
一九九八年(平成十年)12月 近藤芳美 記 
陸軍桟橋歌碑建立委員会

 

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日清戦争以降使用されたハシケが倉庫群の裏に何本も見えます。大陸への出撃の港です。

「第六管区海上保安部跡」とある軍港の遺跡もあります。2003年6月24日広島県、広島市により再整備の方針と報道されました。

「森すぐる」さんに3つとも碑文を読んでもらいました。(ここのは略)

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ばに、宇品駅で使われていたレールが展示されています。

山陽鉄道(現山陽本線)が広島まで開通したのは1894年6月、その4年前の1890年4月には宇品港が完成していました。

1894年7月清国との戦いをはじめた日本政府は、この港と鉄道を利用して戦場である朝鮮に兵士や軍需物資を送り出そうとしました。日本はこの年の8月1日に宣戦布告をし、本格的に日清戦争を開始しました。
 兵士・物資の輸送量が飛躍的に高まると、広島駅と宇品港を結ぶ軍用鉄道が必要になり、1894年7月末、県の役人が動員されて土地の買収がはじまりました。突貫工事は8月20日で完了し、広島駅から宇品港を繋ぐ5900mの軍用鉄道になりました。

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   1972年4月に廃止され、駅舎、線路は既に撤去され、2004年5月、最後のプラットホーム跡縁石も撤去されました今残っているのはこれだけです。
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   会員会館前公園の中へ入ると中央にまずこの「記念碑」があります。皇紀二千六百年、昭和十五年、陸軍中将 田尻昌次とあります。ここに大規模な凱旋館が建設されていました。1970年まであったということです。
1938年2月には、出征軍人・戦傷病兵の歓送迎・慰安のために建設されたものです。
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   つづいて明治天皇行幸記念碑。新しい御世を宣伝するため全国巡幸の一環で、1885年、広島を巡幸し、建設中の宇品港から呉(海軍鎮守府設置が決定されていた)、倉橋島を視察したのを記念して建てられたものです。
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明治天皇碑の側に、宇品陸軍運輸部があったことを示す碑が置いてあります。ここが、大陸、南方への出撃拠点であったことが、これでもはっきりと判ります。

 

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年配の者には懐かしい「港」という有名な歌の碑もあります。この歌は実は宇品港から出兵する風景を歌ったものであると言います。

若い参加者はご存知無いので私がダミ声をはりあげました。

空も港も 夜ははれて  

月に数(かず)ます  舟の影 

はしけのかよい にぎやかに 

よせくる波も こがねなり 

最後が特に意味深ですね

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千田廟公園で降りたあと、「平和塔」となっている「日清戦争凱旋碑」でバスを降りました。

碑の上の鳥、どう見ても「平和」を現わす鳥には見えませんね。金鵄勲章の金鵄・・・トビだそうです。

 

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1947年、進駐軍にとがめられるのを恐れて、「日清戦争凱旋碑」の文字を落として「平和塔」の文字を入れたといいます。裏には「昭和二十二八月六日」の日付けが。