9−1、.2004年8月6日フィールドワーク「宇品・比治山方面」(1)〜(10)

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今年も、参加希望者が多く、マイクロバス2台で行いました。鶴見橋のシダレヤナギを車から見た後、最初、バスからおりたのは比治山への登り口にある多聞院。

広島郵便局殉難者の碑は初め原爆ドーム近くの西蓮寺にあったのが移されたものです。裏を見て下さい。殆どは女性の名前です

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   西にある鐘楼は、ハリが折れたままの被爆の痕跡を残しており、その中の「八時の鐘」と呼ばれるつり鐘は、今もノー・モア・ヒロシマと刻まれています。
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 比治山には展望台がありますが、高層ビルの乱立でビルばかりしか見えません。それよりここからの展望を薦めます。すぐ下に市内最大の被爆建物、被服支厰跡が見えます。海岸には元の軍港宇品港市営桟橋が、一番近い島は、陸続きの元宇品、陸軍暁部隊の地下要塞があった所です。海を見れば左から赤いヤグラの立っているのが機密の島、金輪島、そして峠島、その右が検疫所・捕虜収容所・弾薬庫跡があり、多くの被爆者が収容され死んでいった、安芸の小富士とよばれる似島、さらに右は宮島です。風光明媚な瀬戸の島々、その殆どに、朝鮮人強制労働による地下壕、そして山頂には砲台の跡が(宮島にも)残っており、その多くが現在も呉港を中心に米軍弾薬庫や海上自衛隊の施設に転用されています。
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比治山陸軍墓地です。七基あるカトリック式のフランス人の墓は「義和団の乱」の鎮圧で日本軍と一緒に中国民衆を相手に戦ったフランス兵の墓です。日本軍の友軍としてのフランス軍人が日本で戦病没し、それが陸軍墓地に手厚く弔われることになったのは当然でしょう。

敗戦後、このフランス人の墓の存在があったため 占領軍もここは壊さず、それを基に今の陸軍墓地が再建されました。

日の丸が目障りですね。

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戦前の教科書に載っていた「木口小平は死んでもラッパをはなしませんでした」の、記念板も掲げてあります。

 

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放射線影響研究所(旧ABCC)が企画典をやっていました。被爆者をモルモットのように体のすみずみまで裸にして調べるが治療は全くしてくれない、ということでこの建物は長らく被爆者の怨嗟の的となっていた異様な建物です。

時間が無いので中に入れなかったのは残念です。

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 陸軍被服支厰跡に着きました。今残っているのは1910年建築といいます。軍帽から軍靴、外套から肌着、ベルト、ボタンまで、陸軍関係の被服一式を調達・製造・修理・保管した大施設です。
 太平洋戦争末期には、徴用工、女子艇身隊、動員学徒などが多数動員されていました。敷地内の面積は17万uを越える広大なものでした。
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峠三吉は被爆時のここの惨状を3編の詩にうたっています。その中の「倉庫の記録」の冒頭を毎年読んで貰っています。

 

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戦前の軍港として使用されていたのは、今の広島港県営桟橋ではなく、ここの新しいパラダイスの塔(広島港築港100年記念)あたりから市営桟橋あたりまでです。1998年12月、歌人近藤芳美さんの平和と鎮魂の思いを込めた「歌碑」が建てられました。

陸軍桟橋と ここを呼ばれて

還らぬ死に 兵ら発ちにき  

記憶をば継げ