17ー1、2006年8月6日フィールドワーク「宇品・比治山方面」(1)〜(10)

 (1)  
 

平和大通りの慰霊碑等を車中で説明しながら最初に降りたのが多聞院。

ハリの折れた鐘楼に8時の鐘がぶら下がっているのを説明。

 (2)  
   被爆した夕方には早くも臨時県庁がおかれ、被爆者の救護にあたった、驚くほど早い。「危機管理」が叫ばれているが、極限化したら、全国民の軍隊的組織化ということになるなど、講釈を交えて一くさり。

「広島郵便局殉難者の碑」等も含めて説明しましたが、説明の方が忙しく写真どころではありませんでした。

ここまで、原爆の被害を辿ったあと、一挙に130年前にタイムスリップして「軍都広島」の跡の探問に入ります。

 

 (3)  
   

展望は広島一の穴場と言われる陸軍墓地からの展望です。この日は天候が良く。似島・金輪島は勿論宮島、倉橋島とはっきり見ることができました。眼下には被覆支廠跡が飛び込んできます。

毎年のことですが、陸軍墓地は、「靖国思想」でまとめられていますが、哀しみを背負った戦争博物館みたいなもの、話すことが多すぎ、とても写真を撮るような余裕はありませんでした。このコース、全体的に、筆者は案内で説明を続けていますので、例年のことです。

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   陸軍墓地から旧ABCC、鶴見橋の被爆ヤナギを見ながら、まっしぐらに「陸軍被覆支廠跡」に。1910年に建てられた重厚な被爆建物。爆心から2700mにもかかわらず、原爆の風圧で曲がった鉄扉が、資料館にも展示されています。なぜ、ここで写真があるのかって?
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このように被爆時のここでの惨状を歌った峠三吉の「倉庫の記録」の詩を参加者に読んで貰っているからです。それにしてもこの方の朗読は吉永小百合さん顔負けの素晴らしいものでした。(来年の方が困りますよね−−あ、参加者が変わるからそんなことないか!)

 

 (6)  
   左のコンクリート・ブロック部分は、庫裏とって資料館に展示されているためです。
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   さあ要塞地帯、「軍港宇品」だった跡、波止場公園に来ました。1998年に近藤芳美さん(今年6月、亡くなられました)の優れた歌碑が立って以来、下手な説明より、これを読んだら、という具合で、相棒に読んで貰いました。したがってここも写真があります。

 

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「六管桟橋記念のモニュメント」にも良く説明が書いてあります。

 

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   この海から多くの兵士が大陸、南方に送られ、2度と還ることはありませんでした。
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