5−1、2013年3月16日 山田忠文さんを偲ぶ広島の集い(1)〜(10)

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タイトルバックは、広島県教職員組合にお世話になりました。


下にこの日の「集い」のしおり、参加者名簿、山田忠文さんの遺稿掲載。


2ページ目下に、映画監督・呉徳洙さん、中北龍太郎弁護士から寄せられた追悼文掲載。。

3ページ目下に、
湯浅一郎さん、大畑隆二さんから寄せられた追悼文掲載。
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 在りし日の山田忠文さん。
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 大阪の森田留美さん。
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「アメイジング・グレイス」。

黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨が込められている。

 (5)
 

「折鶴」。

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献花する参加者。

右端は、吉田正裕さん。学生時代に出会った山田さんは「反戦派労働者のリーダー」であったとのこと。

その隣は、金子哲夫・元衆議院議員

 

 (7)
 

竹内瞳さんと平木薫さん。

 (8)
 黙祷を終えた後の司会紹介。中谷悦子さんと久野成章さん。
 (9)
 開会挨拶をする豊永恵三郎さん。
 (10)
 東京から長崎、各地から。
 

               

 



山田忠文さんを偲ぶ広島の集い

 

式次第

 

●参加者入場・献花・テーブル着席

(歌、森田留美)

13:30

●黙祷

●司会(中谷悦子、久野成章)

●開会挨拶(豊永恵三郎)

●献杯(正木峯夫)

●ご歓談

●オカリナ演奏(吉野 誠)

●思い出のスライド上映(在りし日の山田忠文さん)

●メッセージ紹介

●出席者からのスピーチ

●御礼の言葉(山田周子)

●閉会挨拶(横原由紀夫)

●参加者退出

 

日時: 2013年3月16日(土)午後1時半−3時半

場所: ワークピア広島(広島労働会館) 芙蓉の間

 

 


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「山田忠文さんを偲ぶ広島の集い」呼びかけ文

 

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 山田忠文さんが衆議院選挙公示日の12月4日に逝去されてから、二か月が経ちます。

 

 山田さんは、日米開戦の三か月前、1941年9月11日に生まれ、3歳頃から広島・飯室で育ちました。多感な青年の人生の転機は、三池闘争であり、安保闘争でした。三菱長崎造船社研の指導者である西村卓司さんや長崎の同志たちと出会いました。その後、1965年8月から1971年6月にかけての反戦青年委員会(社会党青少年局・総評青対部・社青同の三者呼びかけ)の運動、1971年からの全国労組活動者会議(全労活)の運動、1977年からの『労働情報』運動、職場の三菱造船(後の三菱重工)広島精機製作所での闘い(全造船広島精機分会委員長として)、地域ユニオンの闘い(広島地区連帯労働組合委員長として)と、労働運動を駆け抜けました。

 

 市民運動では、「8・6」、反戦反核の運動をはじめ、被爆者・沼田鈴子さんの活動を支えるために設立した広島アジア友好学院の活動、朝鮮人中国人強制連行労働の発掘調査活動、日本の戦争責任を問う戦後補償への活動、三菱広島韓国人元徴用工被爆者裁判支援、在外被爆者支援、留学生支援、モンゴル交流、中国交流、音楽家・アーティストとの交流、東北アジア情報センターの活動、オリンピック広島招致反対と実に広範囲な課題に力を注ぎました。

 

 その人脈の広さと変幻自在な活動の幅。何度、大きな構想、企画・プラン、ロマンを聞かされ続けたことでありましょうか。にもかかわらず、憎めなかったのは、論理を批判しても人を非難しなかった懐の深さと、人としての優しさ、それが山田さんの魅力でもありました。

 

 このたびは、関係した多くの人が一堂に会して交流を深め、山田さんを肴にして大いに思い出を語り合い、よりよき世界に向けて故人への義理を果たそうではありませんか。

                           2013年2月4日

 

※「反戦青年委員会」は略称で、正式名称は、「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための青年委員会」であり、総評が実際に凍結を決めるのは1969年2月。

 

 

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主催:●主 催:世話人会

   (豊永恵三郎 横原由紀夫 郭 文 鎬 吉田正裕 正木峯夫 金子哲夫 

中谷悦子 竹内 瞳 渡田正弘 平木 薫 新田秀樹 久野成章)

●連絡先:09047404608kunonaruaki@hotmail.com FAX:0822977145(久野)

 

 

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出席者名簿 94 名−3+2=93名出席「呼」は呼びかけ人

相原由美

在韓被爆者渡日治療広島委員会常任幹事

浅井真由美 呼

『労働情報』編集長

浅川泰生  呼

『広島ジャーナリスト』編集長

足立修一  呼

弁護士

網野沙羅

広島

石井出かず子

炭鉱史研究者

石岡 修  呼

広島県教職員組合執行委員長

池原正雄  呼

アオギリを広める会倉吉

池辺幸恵

日朝音楽芸術交流会会長

伊藤園美

韓国の原爆被害者を救援する市民の会

上羽場隆弘 呼

九条の会三原

上村里花

久留米。毎日新聞記者

榎野 礼

HEART to HEART会員

大内槙吾

岡山。中国青島体験の旅グループ

岡田幸良  呼

元広島地区連帯労働組合書記長

岡本珠代  呼

岡本非暴力平和研究所

岡本三夫  呼

広島修道大学名誉教授

小川順子

NGOひろしま。HEART to HEART会員

郭 文 鎬  呼

在日韓国民主統一連合広島本部

加藤陽祐

韓国の原爆被害者を救援する市民の会

金崎由美

中国新聞論説委員

金子哲夫  呼

社民党・元衆議院議員

川原洋子

「中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会」事務局長

木原省治  呼

原発はごめんだヒロシマ市民の会代表

国松浩司

広島

久野成章  呼

8.6ヒロシマ平和へのつどい

小早川 健

広島県教職員組合

在間秀和  呼

大阪。弁護士

佐田尾信作

中国新聞社論説委員室副主幹

佐々木 孝

第九条の会ヒロシマ

左藤滋光

滋賀

沢田 正  呼

日本ジャーナリスト会議広島支部

澤本 梓

読売新聞記者

篠田 恵

被爆者沼田鈴子さんの教え子

清水文裕

元中国新聞記者

鈴木範雄

全造船三菱広機分会会計監査

多賀俊介

韓国の原爆被害者を救援する市民の会

高橋 信

名古屋三菱女子挺身隊訴訟を支援する会共同代表

竹内 瞳  呼

ひろしま市民活動ネットワーク HEART to HEART事務局長

武田 肇

大阪。朝日新聞記者

竹本和友

郵政産業労働者ユニオン

田中利幸  呼

広島市立大学広島平和研究所教授

田邉博行

広島。中国青島体験の旅グループ世話人

谷尾 稔

広島。中国青島体験の旅グループ

谷尾範子

広島。中国青島体験の旅グループ

田村和之

広島大学名誉教授

G

田中伸武

中国新聞記者

鶴井淑弘

韓国の原爆被害者を救援する市民の会

坪内義徳

広島。中国青島体験の旅グループ

手島啓次

福岡。NPO法人東アジアオープンハートコミュニティ理事長

哲野イサク

広島

利元克巳

ヒロシマ革新懇事務局長

 

戸村良人  呼

広島の今から過去を見て回る会

 

豊永恵三郎 呼

被爆者。韓国の原爆被害者を救援する市民の会・広島支部長

中木良子

 

中谷悦子  呼

広島県被爆二世教職員の会

 

中村京子 

広島

 

夏原信幸  呼

三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会事務局

 

難波郁江

YWCA理事

 

南部さやか

兵庫。読売新聞記者

新田秀樹  呼

ピースリンク広島・呉・岩国世話人

朴 南 珠

韓国の原爆被害者を救援する市民の会

 

朴 隆 宏

在日韓国民主統一連合広島本部

 

服部淳子

広島

平木 薫  呼

福島支援プロジェクト

 

平野伸人

韓国の原爆被害者を救援する市民の会・長崎支部長

 

広岩近広

毎日新聞専門編集委員

福原孝浩  呼

NPO法人多文化共生と人権文化LAS会員益田

 

福家 司  欠席

徳島。朝日新聞記者

 

藤井純子  呼

第九条の会ヒロシマ

 

藤原裕久子

韓国の原爆被害者を救援する市民の会

 

風呂橋修

全造船機械労組いすず自動車分会副委員長、湘南ユニオン副委員長

堀田 勇

全造船三菱広機分会書記長、元全造船機械三菱支部執行委員長

前田裕晤  呼

協同センター・労働情報代表

 

前原英文

兵庫

 

正木峯夫  呼

三菱重工韓国人徴用工原爆被爆者・沈没遺家族を支援する会

 

増田千代子

ボイス・オブ・ヒロシマ

 

松尾健司

広島。HEART to HEART会員

 

松村賢治

大阪南太平洋協会理事長

三木 豊

アオギリ里子運動

持橋多聞

全造船機械関東地方協議会 戦後補償担当主任

 

森田留美

大阪。ソプラノ歌手

八木敦子

元広島地区連帯労働組合キリスト教社会館保育所分会

 

矢野秀喜 

強制連行全国ネット事務局長

 

山田周子

 

山中久太

神奈川

 

山本喜介

RCC。フリージャーナリスト

横原由紀夫 呼

広島県原水禁元事務局長

 

吉井美智子

広島

 

吉野 誠

画家

 

吉田正裕  呼

東北アジア情報センター運営委員

李 昇勲

広島県教職員組合

 

李 正一

下関。中国青島体験の旅グループ

渡田正弘  呼

グローバリゼーションを問う広島ネットワーク事務局長

当日出席者  
    雨宮    
    ヨンチョル  

欠席者

内海隆男  呼

広島の強制連行を調査する会

呉徳洙

東京

 

実国義範  呼

平和を考える会

高藤 茂

広島

 

田中元暁

広島

 

中北龍太郎

大阪

 

星川洋史

大阪

 

村田和子

北九州市

岡本哲郎

福岡商事()。中国青島体験の旅グループ

 

三上恵子

被爆アオギリを広める会

 

高田敏子

被爆アオギリを広める会

 

伊達 工  呼

元全逓広島中央支部支部長

北島教行

東京

 

長谷川 潤

広島



2012年8月8日逝去された北九州の村田久さん(享年77歳)の追悼文を札幌の越田清和さん(2013年2月5日逝去)から依頼されました。これが山田忠文さんの遺稿と思われます。『村田久さんを偲んで』から。

 

現場に根ざした組織者から・・

地域住民運動の全国化へ(田を作る)工作者逝く

「田を作る」「遺志」継ぎ永続化運動を・・・・

                                   山田忠文(広島)

89日に村田さん死去の知らせを聞いて愕然とした。あっという間のすい臓がん死であった。1935331日生まれ、享年77歳であった。

私は少し若くて、この激動の時代の年差は大きい。1941年生まれ70歳古希を迎えたところであった。

丁度同じ7月、私も、末期がんを告げられ抗がん剤化学療法を受け退院したばかりであったためそのショックは大きかった。この追悼文も副作用の影響に耐えて、村田さんとついこの4月に青島でこれからどうするかについて語り合ったことを、文脈は定まらないが追悼文とし大先輩へ門下生とし一文を捧げたい。

追悼文を依頼された事務局の方たち、多士済々、百戦錬磨の闘士の名とはあまりなじみの無い広島の地で少数派労働組合運動の地平を切り開いておりました。

村田さんとの交流、出会いの切り口はさまざまでこれまでの地道なミニコミ誌北九州「かわら版」や「田をつくる」通信で多士済々の全国の戦後の活動家によって繋がっていることがうかがい知ることができる。それはひとえに村田さんの地域に根ざし、現場に足を置いた運動に執着した人柄からからうかがうことで知れる。

初めて出逢った時期を正確にいえないがあの大陸的な風貌とした、人の意見をまず聞き入れる包容力と人間力に引かれた事は間違いない。それは優れて組織者工作者の大切な感性であるのだ。そして辛抱人でもある性格がなければ勤まらない。

直接運動を伴うことはなかったが、その後の付き合いの起因は、村田さんの職場が私と同じくする三菱独占企業傘下で生産現場で労働運動に培われてきたことであった。朝鮮戦争を境に、60年代後大きく日本社会が高度成長し、再びアジアへの企業進出が戦前の独占企業をはじめ始まろうとしていた。

三菱重工は65年財閥解体のくびきから解かれ三社が合併をした。そして組合の右派分裂が始まった。私は、60年三池争議、安保直後に入社したばかりであったが、生産点闘争が全国化する中で時勢に乗った諸々の左翼運動に影響され、70年代左翼少数組合として第一組合の防衛の一端を担い、長崎造船の仲間と孤塁を広島の地に打ち立て、退職する42年間、新左翼少数派運動と称して、それなりに全国労働運動と切り結んで末端を全うしたが、現状の労働運動、社会運動の衰退と退廃は60年安保闘争の敗北と、三井三菱住友など戦前の財閥の復活と時を一にし、その後の総評解体そして社民党、社会党の解体にいたる。いまさら語るに忍びないが、原発産業、兵器生産奨励賛同のわが労働者団体連合の運命共同体を見れば言葉もない。しかし村田さんの、70年代の三菱化成の職場における、職場から告発、反公害の孤軍奮闘の闘いを知って、同じ釜の飯を食う仲間、という言葉がありますが三菱を相手に戦っている同志の気持ちが通じるものがあってか、以来交流やミニコミ誌の読者となって今日に至っている。長い経過話で紙面を埋めて申し訳ありません。

 

「田をつくる」みのりを求めて新たな構想を携えて東アジアの旅へ

近年は村田さんとの交流も地域の自治会長となられ、途絶えていた。あまり交流もできずに時を過ごしていたが、2004年「田をつくる」構想を聞いたときからから、再び持ち前の行動に私もそれなり心を動かされ組織論など討論や助言などを呈していたけれど、何せ広島での地場運動、つまり「反核反戦」「原爆被害者の支援運動」から離れることができないのでそれぞれ運動分野が違って7年程度疎遠となっていた。しかし、その中でも90年代初頭からアジア侵略による朝鮮半島・中国の強制連行労働発掘調査の市民運動に村田さんとともに参加し全国交流集会を熊本でも開催参加した事もある。日本の戦争責任と戦後補償の壮大な運動に足を踏み入れた。      

戦後67年、いまだにアジア民衆と日本民衆との真の和解は成立していない。この回答を見つけるに村田さんの篤い思いの旅は脳裏から消えることはなかったであろう。百年先の日本を見据え、グローバル化社会に対応する運動を、戦後それぞれの場で培ってきた思想と経験を交流し,摺り合せ、抵抗のネットワークを確立したい・・・・と言う願いが呼びかけられている。

この一文は2005年田をつくるin米子シンポの呼びかけ文である。

どこまでもリアリスト村田さんの組織工作者としてのロマンが根底ににじんでいる。しかしその事業も残念ながらその実りを見ることなく逝ってしまった。無念と言うほかない。

広島にあっては、三菱の兵器生産反対・戦争責任をかって職場で追及していた延長線上に強制連行朝鮮人労働者の実存が三菱でも具体的に明らかになり、原爆被害者でもありその戦時下の同僚労働者の賃金未払いなど救済を避けて通ることはできない使命があった。既存の労働組合は見向きもしなかった。

戦後補償の闘いに参画し、広島から1995年から2007年最高裁確定の12年間三菱を相手に46名の韓国元徴用工の損害賠償裁判に事務局として邁進することとなった。当時既成諸党派は無論、新左翼も一行も戦後責任・戦後補償の思想的確立もなく歴史認識に立った論文は皆無であった。

それはともかく、この結果、日本国は原爆に起因する国家損害賠償を始めて認めた。そして、国際裁判として韓国でも三菱を相手取って訴訟が展開されている、時はめぐり今どうなっているかはネット上に情報があふれているので割愛する。

 

村田夫妻とともに―2012418日から24日 船旅で山東省青島へ・・・

お互いに中国や韓国などにアジアでの活動で出向くことはあっても一緒に旅をすることはなかった。ところが時折あえばいつもユニークな面白い話を「しよるばい」と私のことを揶揄していた村田さんもまた、さまざまな提案や仕掛けをされていることは周知のとおりである。

そこで、どうしても青島へセカンドステージ、年金生活者の旅を友人と企画したので講師にもなってもらって船上セミナーも開こうと誘った。

その第一回現地リサーチも兼ねて13人のツアーを九州 山口 広島 岡山 から団員を募って出かけた。60歳を過ぎた高齢者たちが中心であったが、下関から青島直行の客船23000トンの豪華客船?が1隻就航していることはあまり知られておらず、廃線の話もあるが、貨物運送と中国人の渡航に使われている。格安の運賃である。

船名がしゃれている「ユートピア」と言う。別に現代中国に期待を持ってゆくまでもないが、人と人、個と個の自立した交流を25年来留学生交換を通して友人が進めている貴重な実績と信頼関係にあやかって行った。団塊世代のOBまたそれに続く人々と中国の若者や大学生たちとの交流、そして、日、中、韓、東アジアのピースボート、民衆のアジア共同体構想の新たな事業をやろうと言う現場を見ながらの実践的な旅の試みであった。ほとんどご存知無いと思いますがこの黄海の中を往来する船は韓国、中国、北朝鮮が一番多いいでしょうか。青島―大連―プサンーインチョンなど下関を加え海から一周するツーリングが可能なことがわかった。

がら空きの2等船室、会議室を借りて33時間プラス45時間往復3泊の船旅には充分な議論を闘わす時間がたっぷりある。因みに船賃は朝食事つき往復 青島ホテルつきで4万円程度です。また大浴場から上がってチンタオビールの味はまたいいものです。その他青島をめぐる第一次大戦ドイツと日本の植民地争奪戦の歴史問題など過去の歴史の学習も客観的に学ぶ歴史教材がそのまま残されている。

青島の優れた景観に歴史的思いを馳せ、昨今の目を覆うばかりの領土問題の主権争いに目を奪われてはならない。国家そのもの、領土そのものが溶融し、崩壊過程にあるグローバル社会の到来、21世のヒドラを開く展望を見出すための論議、もう少しの間あの地平線の海原でユートピアに揺られながら語り明かそうという願いも届かぬこととなった時の流れをともに思わずにはいられない。

安らかに永眠ください。お疲れ様でした。良き和子さんへ感謝を述べて…完とします。

                           

2012年8月28日