5−3、2013年3月16日 山田忠文さんを偲ぶ広島の集い(21)〜(30)
 
 (21)
  右端は田中利幸さん。その隣は平野伸人さん。
 (22)
 李根睦(イ・グンモク)さんに「恨(ハン)」刊行を報告する山田さん。
 (23)
 

画家の吉野誠さん。

 

 (24)
 オカリナの演奏で追悼する。
 (25)
 

吉野さんも沼田鈴子さんや山田忠文さんと共にアジア侵略戦争の日本の加害行為を心に刻み、被害者を支援し戦後責任を果たしている。

 (26)
 メッセージを読み上げる平木薫さん。

映画監督・呉徳洙(オ・ドクス)さんからのメッセージ。
 (27)
  中北龍太郎弁護士(関西共同行動)のメッセージ。
 (28)
 

ご歓談の時は短く。

 (29)
 久野成章さんの名調子で出席者からのスピーチに入る。
 (30)
 まず、在間秀和弁護士(大阪)。
 

               

 

 

山田忠文さんを偲んで・・

  初めてお会いしたのがいつなのか、よくはわかりませんが、1970年代後半、三里塚か広島労活の会合の中でだと思います。当時、私は、広島に行ったばかりで、芸南火電阻止闘争に没頭していて、8.6広島反戦・反核集会で、時々、お会いしていたのだと思います。三菱広機では、78年暮れころから渕上さんが芸南火電問題に深くかかわっていただき、安芸津での説明会阻止闘争の折りは、2人とも仮の名を使って、夜を徹して一緒に赤崎青年団へのオルグ活動等をしていました。

  山田さんは、反公害や反開発の住民闘争には一歩距離を置いていたと感じています。私とは、立ち位置が違うかもしれませんが、労働現場の問題を三菱独占の関連企業で闘っている姿は、いつも尊敬していました。かくいう私は、通産省の末端研究所で反原発、反火電を闘うにつき、三菱独占の中にいて、それを批判し、克服していこうとする山田さんたちの方法論を教えていただきたいと思っていました。 

今、振り返ってみると、多くは8.6広島集会や新春合宿といった多くの人がいる会合でお会いする程度で、本当に心を割って、人生を語ることはなかったかもしれないと、少し心残りです。私は、市民として、思い立ったことを行動し、実践していくタイプの人間ですので、危なっかしく思われていたかもしれません。「湯浅さん、今度、アジア友好学院というのを始めるんですよ」と、いきなり色々な話をお聞きしたことを思い起こしています。

広島を離れてはや丸4年がたち、3.11を自分なりに経験して、核エネルギーを含めて、科学技術文明総体の批判と克服に残った時間を割いていきたいと思いつつあります。山田さんのめざしていた方向を念頭に置きつつ、私なりの生き方を貫くことが、残されたものの仕事だと思っています。

  長きにわたり、お世話になりました。

ありがとうございました。

 

2013年3月15日

湯浅一郎(ピースデポ、環瀬戸内海会議)     



山田忠文さんを偲ぶ会広島の集い」のご案内をいただきましたが、

参加できませんので、メッセージを送ります。

 私が加藤と共に広島で暮らし、市民運動の一翼をになったのは、もう20年以上も前になりました。

89年に広島平和公園前の病院で生まれた息子は、今年、24歳になり、私たちも61歳になります。

広島の忘れられない人たちのなかに山田さんがいます。少数派の困難な闘いのなかでも、いつも夢を追い求めていた山田さんでした。

 私は、昨年10月に大腸ガンが見つかり、手術を受けました。現在、抗がん剤治療を受けながら、幸いにも副作用もなく、手術前と変わらぬ生活ができています。しかし、死ぬことは生まれ落ちたときからの約束とはいえ、ガンの宣告は死を意識させてくれました。死ぬことが怖いというのではなく、やり残したことが多すぎて、死にきれない思いがしました。

山田さんもきっと、やり残したことがたくさんあっただろうと思います。

世の中が、右に、右に流れていく中で、その思いはひとしおだったのではないでしょうか。

山田さんのやり残した思いを心に刻まなくてはと思います。

山田さん、ゆっくりお休みください。

 

大畑龍次