2、猿猴橋(えんこうばし) (猿猴川)
   
 

1926年建設された鋼板桁橋。橋長62.4m、幅員8.5m。それまでは木橋でした。欄干には2匹の「猿猴」が地球の上ではばたいている姿の電飾灯が取り付けられていました。1941年、金属回収令で、この金属製の装飾は取り払われてしまっていました。「猿猴」とは、カッパと同じく、川の中や橋の下に住んでいたという伝説の生き物です。絵本にも取り上げられています。

爆心から1,820m。あの日、この橋を渡っていた人は川の中に吹きとばされたり、欄干に叩き付けられたりして死んでいきました。負傷して生き残った人はわずか、欄干も破壊されました。しかし渡ることは出来たので、市の中心部から当時救護所に指定されていた東練兵場方面に向けて人々は続々とこの橋を渡って逃げて行きました。未曾有の大混乱と惨状がこのあたりで展開されました。そして被災者達は次々に死んでいきました。戦後、吹き飛ばされた欄干は元の位置に戻されましたが、傷跡を今も留めています。橋は当時のものです。近くの京橋、荒神橋でも同じような修羅場が展開されました。想像力が試されます。

   
 

また「下の左手の水を通す管の端も見るからに被爆遺跡と判ります」、と今まで書いていましたが、この水管橋、「市内で現存する中では最古で、橋脚は1935年に現在の石張りコンクリートとなった。爆心地から約1.8キロ。爆風にも耐えた」ものだったということが、この橋の撤去工事にあたって、「その一部の石材をモニュメントとして残す」方針になったと、2007年4月21日の中国新聞で報じられてはっきりしました。  

上の写真は2012年5月16日撮影。右の写真は2002年9月8日撮影。

 
   
   2012年5月16日に確認に訪れたところ「西國街道と猿候橋」という被爆前の猿候橋の写真と地図の入った説明板が立ててありました。

「西國街道

 西國街道(さいごくかいどう)は、江戸時代の広島藩内の山陽道の呼び名で、五街道に次ぐ規模を誇り、幅員は2間半(約4.5m)ありました。古代から中世まで、京都と大宰府を結ぶ重要な街道として宿駅や一理塚、街道松が整備されました。広島藩内の宿駅には、広島城下の東の愛宕町界わいや西の堺町界わいをはじめ、西から玖波・廿日市・海田市・西条四日市・本郷・三原・尾道があり、参勤交代や多くの交易に利用されました。

猿候橋

 猿候橋(えんこうばし)は、16世紀末の毛利時代に木橋としてかけられ、西國街道の要衝に位置していたため、長く陸上交通の重要な役割を果たしてきました。

 橋名の「猿候」とは、広島地方で、サルに似た河童のような想像上の怪物のことを言い、洪水のたびに人々を川に引きずりこむ猿候がすむ川として、川や橋の名前に使われました。

 現在の橋は、大正15年(1926年)2月に完成したもので、落成当時は、広島一と言われるほど美しい橋でした。親柱(おやばしら)の上には地球儀のような球の上に鷲が羽を広げた像がすえられ、束柱(つかばしら)には豪華な電飾灯、欄干には2匹の猿候が両側から桃を抱えている鋳物の透かし彫りが施されていました。右上の写真は対岸から撮影した当時の姿です。

 その後、戦争中の金属類回収令により装飾品は供出され、現在の姿になりました。原爆の際には、欄干の一部が破損する被害を受けたものの、構造的な被害は軽微にとどまり、被災者の遭難や救済活動に使われて、多くの命を救いました。」