| 17.寳勝院碑と被爆ツバキ、菩提樹(被爆樹)、地蔵、大田洋子文学碑 (中区白島九軒町12−2) |
| |
|
 |
1995年3月18日の中国新聞に被爆樹ツバキが出ていたので見にいったところ、左の碑に出会いまいした。爆心から1700メートル。横に亀裂が走っています。まず被爆遺跡としてこれを紹介します。文章の意味ははっきりとは判りません。以下のとおいです。
「 表 芸之廣島寳勝ノ院 慶長三年増仙法印所創元在同國吉田荘天正年間太守毛利輝移干廣嶋島寳勝院亦随移因祀碇神護城之鬼門以院祀充其別當付社領五百石及福島正則代為國守没収社領明治維新社寺分離印幾 頽増仙開山十六世孫僧正徳明慨嘆之三十餘年干 慧業大行信徒雲徒雲従責得再興輪奥復旧馬今也欲勤 未干石嘱文干祠遂記銘日一盛一衰人界之常法澄桃得長照十方 大正四年乙卯年七月讃岐 小田耕岳撰 備中 稲田文武書
義捐者芳名 八口原百次郎外2 七口1 六口香川夘人外1 五口村田能吉外2 四口原九造外4 三口登島一成外9 二口増田甚太郎外19 一口井上セイ外39名の名
發起人 イロハ順 原百次郎外8名の名前あり」
左の写真は2002年9月15日撮影。 |
| |
|
| |
 |
| |
|
 |
続いて被爆樹。記事によると、宝勝院は爆心から約1.7キロ。被爆ですべての建物が倒壊し、焼失したということです。境内の木々も真黒に焼け焦げました。
しかし、翌春、枯れ死したと思っていたツバキや桜の幹の付け根から、新芽が顔を出しました。徐々に花もつけるようになりました。1954年に本堂を再建。74年には寺をコンクリートに全面改装しました。本堂前に76年、水子地蔵を建立した際、ツバキを地蔵さんのわきに移植しました。桜は75年に枯れたが、ツバキは元気に成長しています。根元の中央には斜めにえぐりとったような十センチ
ほどの傷が残っています。原爆で焼け、朽ち果てた痕跡です。その後、寳勝院碑裏の樹も被爆樹(菩提樹?)と判明しました。「被爆樹木 |
| |
|
ボダイジュ 爆心地から1,820m
このボダイジュは、1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、生き残りました。1974(昭和49)年に新本堂が建立された際に、現在の場所へ移植されました。」 |
 |
| |
|
 |
また、左の写真のように首だけ等の地蔵さんがならんでいます。ここで被爆したものか、原爆で首だけになったのか、仔細は不明ですが、被爆したものには間違いないようです。
左の写真は2002年9月15日撮影。 |
| |
|
| 大田洋子文学碑
2010年7月29日、寺の南側、碇神社を挟んだ墓所に宝勝院前住職の国分良徳さんが建立。16歳だった良徳さんは寺で被爆、隣の家で大田洋子が被爆したという。そのことが「屍の街」の書かれているという。
|
 |
| |
|
  |
| |
|
|
大田洋子被爆の地
「屍の街」より
白い鶏が足元を
ことこと歩いていた。
それを神社の前の寺の子が
探しに来て、抱いていった。
寺では夫人と赤ん坊と
七つの女の子の三人が
下敷きになって死んだという。
平成二十二年七月
当山第十八世住職
良徳建之
|
|
  |