42−1.大本営跡        (中区基町21)
   
 

  今は公園になっている広島城の天守閣をのぞむ本丸広場には、旧大本営の礎石がちらばり、そのそばに「明治二十七八年戦役広島大本営」の石碑(昭和十年・文部省建設とかろうじて読める。右の碑文は塗りつぶしてある)があります。1995年、新しく英文を添えた説明板が立てられました。

(懸案の宿題だった「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」の右側の塗りつぶされた文字が判りました。朝日新聞広島地方版、1998年2月12日付け「平和都市のかげで」の特集記事の中で「史蹟名勝天然記念物保存法に依り 大正十五年十月内務大臣指定」とあったそうです。たいして他愛のない文字ですが、占領政策の中で、慌てふためいて「軍都広島」の跡を消して回った様子が伺えます。おさわがせでした。)

左は2006年7月23日撮影。

   
  1893年、日清戦争に備えて「戦時大本営条例」が制定されました。戦時あるいは事変の際の最高統帥機関として大本営は制定されたのです。1894年6月5日、これにより大本営が東京の参謀本部内に設置され、8月1日には清国への宣戦布告とともに宮中に移されました。さらに9月15日、明治天皇の「広島行幸」とともに、広島城内の第五師団指令部に移されることになりました。ちょうど6月に山陽鉄道が広島まで開通したばかり、その5年前には宇品の築港が完成していたため広島が絶好の派兵拠点となったためです。天皇及び、政府・軍部の首脳は広島入りし、ここで戦争指揮にあたりまし。広島城の南、西練兵場には国会議事堂も仮設された。ここで10月18日から22日まで臨時帝国議会が開かれ、1億5千万にのぼる「臨時軍事予算案」が満場一致で可決されました(1893年当時の国家財政規模は約8500万円)。こうして、1895年4月17日に日清講和条約が調印され、天皇が広島を離れるまで広島は臨時首都になったのです。

右の写真は2004年6月26日撮影。
 
   
 以降広島は侵略の前線基地としての役割をはたすこととなりました。しかし、1945年の原爆は、木造白亜二階建ての大本営を一瞬にしてふきとばしてしまいました。
左は2008年5月16日撮影。
   
 

 また、大本営跡前の3本のクロガネモチ(右の写真)も被爆樹、「爆心地から910m 1894(明治27)年の日清戦争開戦後、広島城内に大本営がおかれました。このクロガネモチは、大本営前庭の車回しの植え込みに植えられていたもので、1945(昭和20)年の原爆にも耐え、生き残りました。」と1998年3月に説明板が付けられました。(被爆の痕跡は判らず)。 2003年3月5日、被爆樹として「公開治療」が行われたと報道されていました。

なお日清戦争といっても、朝鮮半島が戦場だったことは忘れてはいけません。日清戦争について、韓国で勉強してきました。興味のある方は次ページを見てください。

   
 右は侍従等詰所跡。2013年4月17日撮影。
   
 左は皇后文官住居跡。2013年4月17日撮影。