3.原爆ドーム(産業奨励館)   (中区大手町一丁目10) 
   
 

なにはともあれ、ヒロシマと言えば「原爆ドーム」。平和公園めぐりは、やはりここから始めましょう。

(説明碑文)

1915年(大正4年)8月、チェコの建築家ヤン・レツル設計により、「広島県物産陳列館」として開館し、広島県内の産業奨励や文化向上のための展示場としてにぎわいました。
1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」と改称されましたが、1945年(昭和20年)8月6日、ほぼ真上の上空でさく裂した原子爆弾により大破全焼し、その形からいつしか「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。
その後、保存募金による2回の保存工事が行われ、平和記念公園の一角に被爆当時のままで保存されています。
1996年(平成8年)12月、核兵器廃絶と人類の平和を求める誓いのシンボルとして、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。(以上) 

※2003年10月19日この説明版に黒い塗料が塗り付けられているのが発見されました。原爆慰霊碑への塗料(3月)、「原爆の子の像」の折り鶴放火(8月)と平和への心を踏みにじる行為が続いたのは残念です。

写真は2003年8月1日
   

広島に投下された原爆は、この産業奨励館からわずかに東南寄りの上空約600mで炸裂しました。爆発と同時に、建物内にいた130人は全て死亡しましたが、建物は中央のドームの鉄骨と外壁の一部が倒壊を免れました。爆心地から、半径2キロにわたる一帯が廃墟と化した街にあって、この鉄骨ドームの残骸は、あたかも一瞬のうちに消し去られた街や人々の無念を訴えているかのようです。広島型原爆だから、まだこのように残骸が残ったともいえるでしょう。現在の核爆弾だったら跡型もなくふっとんでいたのではないのでしょうか。

 1966年、広島市より「廃墟として保存する」方針が出る迄は、その存廃を巡って、様々な議論を呼びました。世界中からの募金によって1967年に壁の補修工事が行われ、2回目は1989年末から壁及び鉄骨の補修がなされ、2003年3月、3回目の保存工事を終えたところところです。(工事中も中が見える様に工夫されていました。)なにしろ「世界遺産」に登録され、広島の貴重な「観光資源」ともなっていますものね。なお、元長崎市長の本島等氏から、「戦後補償もきちんとしていない中で、世界遺産となる資格はない」という趣旨の発言がなされ、物議をかもしだしました。 

このあたり、原爆投下時は「猿楽町」(さるがくちょう)といい、大小の商家が軒を並べていました。その復元地図の入った説明板もそばに設置されています。

また、2005年4月、原爆ドームの後ろ(南側)にこの原爆ドームについて 詳しい説明板がつきました。(下に)

なお、この原爆ドームのそばに二つの、中に入っていて犠牲となった人たちへの職域慰霊碑がありますので、次に説明しておきます。

写真は2002年5月18日撮影。
 
 猿楽町説明板  
 

猿楽町(さるがくちょう)通り周辺

この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師をはじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。

 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートルでさく裂し、爆心直下のこの町一帯は、人も町並みも全滅しました。焼け跡には、広島県産業奨励館の残骸(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。

 復元地図は、原爆で消えたかっての町並みを後世に残すため、1998(平成10)年に作成されたもので、この一帯が最も活気にあふれていた1940年(昭和15)年前後の生存者の情報をもとに再現したものです。

写真撮影 広島商工会議所屋上から猿楽町通りを見下ろす 1946年10月初旬 林 重男氏撮影

復元地図作成・慣習 矢倉会(爆心地猿楽町周辺生存者の会)

写真は2005年7月18日撮影。
   
               
 
 原爆ドームの詳しい説明板  
 

世界遺産 原爆ドーム

(写真)広島県物産陳列館の建設

被爆前の広島県物産陳列館 (写真提供:広島平和記念資料館)

原爆ドームのもとの建物は、チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により1945年(大正4年)4月に広島県物産陳列館として完工し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。

 館は、県物産の展示・即売、商工業に関する調査・相談などを業務としていましたが、美術品うあ博覧会など文化事業にも利用されました。

 その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、業務の拡大が図られていきましたが、戦争末期の1944年(昭和19年)4月から、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社などの官公庁等の事務所として使用されました。

(写真)原爆ドームへ

被爆直後の広島県産業奨励館 (写真提供:広島平和記念資料館)

 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が、人類史上最初の原子爆弾を投下しました。原爆は、広島県産業奨励館の南東約160メートル地点の上空約600メートルでさく裂し、建物は大破・全焼、館内にいた全員が即死しました。

 しかし、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、建物の壁の一部は倒壊を免れ、最上部に残った鉄骨により円蓋をもつ建物であったことがわかる程度の残骸となりました。

 戦後、広島県産業奨励館の残骸は、最上部の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から、原爆ドームと呼ばれるようになりました。

写真は2005年5月17日撮影。
   
 

(写真)保存への取り組み

第1回保存工事の状況(写真撮影:広島市)

原爆ドームについては、当初、記念物として残すという考え方と、危険建築物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありました。

 しかし、市街地が復興し、被爆建物が姿を消していく中で、保存を求める声は次第に高まりを見せ、1966年(昭和41年)、広島市議会が原爆ドームの保存を決議しました。これを踏まえて、保存工事のための募金運動が行われ、国の内外の平和を願う人々の寄金により1967年(昭和42年)、第1回の保存工事が行われました。

 その後も、数回の保存工事が行われ、原爆ドームは被爆当時の姿を今に伝えています。

(写真)世界遺産への登録

南西上空からの姿 (写真撮影:井出三千男氏)

 1996年(平成8年)12月、原爆ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍伝える歴史の承認として、また、核兵器の廃絶と世界の恒久減り輪の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として、世界遺産に登録されました。

 また、原爆ドーム周辺は文化財保護法による国の史跡に指定されるとともに、平和記念公園周辺を含む緩衝地帯(バッファゾーン)が設定され、原爆ドームの保護が図られています。

写真は2005年5月3日撮影。