23.原爆供養塔                    (中区中島町1・平和公園内北)
   
  この供養塔には犠牲者の約七万柱の遺骨が納められています。その殆どの名前は不明です。名前が判りながら引き取り手の無い遺骨については、毎年全国に広報し(816柱ー2013年7月)、遺族がわかりしだい手渡されていますが、年とともにその数は少なくなっているといいます。(2010年4月に一体引き取り、以降無し)。原爆で肉親を失って、遺骨も判らなかった遺族にとっては、これがお墓で、8月6日は早朝から静かに祈る人達が絶えません。この祭壇の裏側(3枚目、4枚目の写真)が入り口となっています。また毎年8月6日を中心に、広島戦災供養会をはじめ、広島県宗教連盟及び各宗派により、慰霊行事が行われています。
 この円型の土盛りは、桃山時代の天皇の墓を模して造られたといいますが、天皇に近づけさえさえれば犠牲者も喜ぶだろうという、支配者側の傲慢が感じられて恐ろしいものです。宗教家達もこのことを見抜いてほしいものです。なお、この場所は元慈仙寺の跡地であり、ここで数万体の屍が焼かれ、その煙は数日も消えることがありませんでした。元安川と本川の分岐点でもあるこの場所には、引潮に引かれ、差し潮にあげられて、だんだんぶよぶよになった死体が、引き上げても、引き上げてもつぎつぎに流れてきたといいます。
 納骨室は、「土まんじゅう」と呼ばれる盛り土の半地下にあり、床は5.2b四方、高さは2.05b。

2005年1月24日骨つぼを取り出しての初の内部の防水補修工事が行われました。(2005年1月24日工事完了、報道陣に公開)
   
 
   この供養塔の北には、遭難横死者慰霊供養塔、原爆死没諸霊位供養塔があります。まだ犠牲者の骨が散乱していたこのあたりに広島戦災供養会の手によって1946年仮供養塔、仮納骨堂が建てられ、1955年、広島市が納骨堂(原爆供養塔)を造営するまで、木の仮供養塔から始まって、石の塔となり、原爆死没諸霊位供養塔、原爆供養塔となっていったようです。なお、最初の木の供養塔は2001年、朽ちてしまい、撤去されたようです。  
 左の2枚は1993年1月撮影。木の供養塔は2001年に撤去されています。