26.平和の観音像 (中区中島町1・平和公園内北) 
   
   

1956年、当時のこの町の生存者が、観音像を建立、広島市に寄贈しました。

折り鶴の塔を経て、うっそうとした木立の中に入ると、このあたりは、中島本町のあったところです。消えた町、失われた人を偲んで行く。戦前、弦歌さざめく艶やかな街に近く、西の繁華街でもありました。今はただ、ひっそり佇む平和観音がおわすばかり。近くに中島本町の復元図を埋めた跡があり、像のかたわらに3本のクスノキが植えてあります。親・子・孫3代の平和への願いをこめたといいます。ここを訪ねると、一瞬にして消えた町への思いは、このあたりの様子を知っていた人にはつきない、といいます。

2013年5月17日撮影
   
 なお、平和公園には「原爆で消えた町」天神町南組、北組、材木町跡の碑もあります。中国新聞では、97年より「爆心の町・猿楽町」を皮切りに、これらの町や、細工町、島病院、市立第一高女2年、県立広島二中、広島郵便局、元柳町等の「遺影は語る」というコピー不可能なような迫力ある大判記事を出しています。1999年の8月6日には、この町ゆかりの人達がこの大判記事でこのあたりを囲んでおられました。木町は2000年4月27日、28日に、元柳町は5月8日に、市立第一高女1年は6月22日、23日に出て、2000年6月29日に総集編(平和公園の復元地図)で完結しました。なにも中国新聞の宣伝するつもりはありませんが、いいものは良いと言えるのが草の根ホームページの気楽さで、他の新聞社さんもそれぞれ持ち味があり、頑張っておられるのは承知していますので気にさわったら御免なさい。欲を言えば、米軍に「軍事施設攻撃」の口実を与えた、爆心地の北側(護国神社や旧軍施設の密集していたところ、広島城周辺徒歩コース[目次1]で案内しているところ)を掘り起こして貰いたいものですが、機密のベールにいまだ覆われているのが残念です。

2013年5月17日撮影