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町名のとおり藩政時代は材木問屋があった所で、750人余の人が住んでいた。
よく捜さないとわからないぐらい小さな碑である。当日、広島市立第一高等女学校の540名や、各校の1、2年生が建物疎開作業をしていた。
原爆炸裂の直撃を受けて、まだ13、4歳の子供達が、一瞬のうちに、地面に叩きつけられたり、吹き飛ばされたりした。即死者と重傷者が折り重なり、どうにか歩ける者は、近くの元安川や本川に逃げようとしたが、途中倒れる者も多く、火焔の中、熱にあぶられながら防火水槽や川に飛び込み死んでいった。一部の者は、川から救援にきた暁部隊の舟艇に収容され似島に送られたが、その生徒達も生き残ることは出来なかった。
写真は2013年5月17日撮影 |