37−2.アオギリのうたと千田国民学校原爆犠牲教師と学童「追悼の碑」 中区東千田町二丁目1)
   
 

2001年11月3日、以下の「アオギリのうた」が、広島市がミレニアム記念事業の一環に公募した「広島の歌」の最優秀のグランプリに選ばれました。その「アオギリのうた」を作詞・作曲した中区千田小学校3年・森光七彩さん(9つ)に、11月11日偶然にもこの被爆アオギリのそばで、沼田さんが遭遇、記念写真を撮りました。記念写真と「アオギリのうた」を紹介します。(右は妹の楓ちゃん)

(下は大きくなった「千田小学校追憶の碑」の右手にすっくと立っている、森光さんの歌にあるアオギリ2世。2002年5月3日撮影のものと1995年5月のもの。毎年春には青い葉をつけます。)

 

アオギリのうた

作詞・作曲 森光 七彩

電車にゆられ 平和公園

やっと会えたね アオギリさん

小学校の校ていの木のお母さん

たくさん たくさん たね生んで

家ぞくがふえたんだね よかったね

遠いむかしのきずあとを

直してくれるアオギリの風

遠いあの日のかなしいできごと

し料かんで見た 平和の絵

いろんな国の 人々や

私がみんなが考えてゆく広島を

勇気をあつめちかいます

あらそいのない国 平和の灯

遠いむかしのできごとを

わすれずに思うアオギリのうた

これから生まれてゆく広島を大切に

広島のねがいはただひとつ

せかい中のみんなの明るいえ顔

 
 
   
              
   1993年、平和公園内の「被爆アオギリ」一本が枯れかかっていて、平和学習のために市内各小学校に「二世」の種子や苗が贈られました。千田小学校のものは、「追悼の碑」の右側に、1993年6月ごろ、ほんの小さな芽で、説明板がなければ判らないくらいだったのを確認しています。左の写真は1995年5月。下の写真は2002年7月6日撮影。あれがもうこんなに大きくなったのか、森光さんもこれを毎日見ているのかと、感慨ひとしおです
   
 

写真にある千田国民学校原爆犠牲教師と学童「追悼の碑」(中区東千田町二丁目1千田小学校内)についても説明しておきましょう。

 幼年学童は、予想される空襲に備えて殆ど縁故ないし集団疎開していました。あの日学校にいたのは10人ぐらい。学校の中での即死者は3人ぐらということです。建物疎開で市役所方面に出ていた高等科の生徒が、判っている中では最も犠牲が多く、引率の教師とも全滅しました。家で犠牲になった児童もいます。校舎は全焼。1976年、この慰霊碑は遺族会の手で建てられました。教師3名、学童41名の名前が刻んであります。以前は正門から入って左にありましたが今は移動されて右手にあります。

   
               
   
 中国版青桐出版記念ツァー