48.広島市立第一高等女学校慰霊碑(中区中島町1・平和公園外南緑地帯) 
   
 

937年に始まった日中戦争はどんどん拡大し、長期化していき、1938年には国家総動員法が制定されました。市女の生徒も早くから動員され、学校では殆ど授業らしきものはなく、市女の校舎も軍服工場になりました。あの日、市女の生徒も建物疎開作業に動員されていました。そして生徒・教職員679名が原爆の犠牲になりました。

 1948年早くも慰霊碑を母校の校庭に建て、平和塔と呼びました。しかし碑はやはり子供達の臨終の地に、という遺族の願いで、1957年に、建物疎開をしていた場所、つまり現在地に移されました。占領時代は厳重なプレス・コードがしかれ、原爆の文字すら使用することが許されなかったので、湯川秀樹博士を訪ねて原子力を意味するE=MC2という記号を教わり、その記号の書かれた箱を持ったもんぺ姿の少女が昇天するのを、一人は平和の鳩を抱き、他の一人は花輪を捧げて慰めている姿が表現されています。

左の写真は2002年8月30日撮影
   
   しかし「あなたは原子力の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱になったのです」という慰霊碑の説明文については「原爆投下の肯定につながる」との指摘が市民団体からあがっています。

2013年5月17日撮影。
   
   なお、最初の東区戸坂(へさか)の持明院という寺には左のように当初の追悼碑が形を変えて残っています。