1.「平和のこと よろしく」碑(中区中島町6−1、天満宮境内) 
   
   

平和公園の平和大通りを挟んだ南に市立第一高女追悼碑があり、そのすぐ南に旧天神町南組の慰霊碑があります。この地域内に市民の信仰を集めていた天満宮があり、建物疎開から除外されていましたが、被爆の一撃で崩壊、炎上しました。この天満宮の遺跡は長く被爆の語り部をし、沼田鈴子さんにも「生かされた者の使命」として証言者になることを薦めた坂本文子さん(1988年亡)の家の庭に保存されていました。

1994年この家が取り壊され、駐車場になるに及んで、その一角に多くの被爆遺跡とともに、天満宮は再建されました。この中に「平和のこと よろしく」といメッセージか刻まれたこの石碑が建立されました。

写真は1995年10月15日撮影

   
 

これは、長崎で被爆し、1976年、当時東京の中学で教師をしていた江口保さんらが、「生徒と同じ年ごろの子どもを失ったお母さんの話が聞きたい」と広島への修学旅行を企画、体験を語ってくれる人を捜して知り合った坂本文子さん(1088年亡)を、偲んでたてた碑です。坂本さんは、広島市内で建物疎開に動員された長女城子さん(当時13)と、市内の学校に通っていた長男敬美さん(同17)を被爆で相次いで失い、自らも市内の丹入本町で被爆しました。江口さんの依頼で「語り部」を始め、以来約10年、500校、1万人以上の生徒に語り伝えてきました。

江口保さんは、1986年、教師を退職後単身広島に移り住み、「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰し、長く100人以上の「被爆者」と「ヒロシマ修学旅行生」の橋渡しをされて来られました。「中国軍管区地下通信司令部跡」に最初に目を付けられたのも江口さんです。が、1996年東京へ帰られた後、1998年6月、惜しくも69歳でなくなられました。死後「谷本清平和賞」を受けられています。この碑を見て、改めて坂本さんや江口さんの遺志を継ぐ決意を新たにしたいものです。

   
              
   
   

前の左の門柱の裏には、「明治四十年一月建之 廣島市天神町 田中春四郎 寄付者 妻 田中イト子」と刻んであります。

右の門柱の裏は「枢密院副議長忽議間性賛意賜桐花章伯爵貞久世通熺書」とあります。

 

   
   
   
   菅公一千年祭紀念碑 陸軍中蒋從三位勲一等功二級男爵山口もん主糸臣書 とある碑
   
   

昭和6年5月1日撮影の「被爆以前の天満神社」の写真とともに説明板がたっています。

天満神社(旧天神町)

御祭神 菅原道真大神

御由緒 

  天満神社は毛利輝元卿が広島に城を築き高田郡吉田町から入府した時、吉田の天神山からこの地に遷して奉斎したのが始まりである。当初この地は、「舟町」と称していたがこれにより「天神町」と改めた。

  その後、広島城主も福島正則を経て浅野家と変わるが、浅野長晟卿が広島城に入城の際船を水主町(現加古町)に着け、天満神社に入り暫く休憩の後入城した。

 この因縁から浅野家の当神社に対する崇敬は大変厚いものがあり、正月五月、九月には当神社に参拝され様々な郷地・宝物の奉納がなされた。元和七年(西洋暦一六二一年)連歌百韻を奉納している。また、寛永八年(西洋暦一六三一年)社殿を造営したが、享保十三年火災に罹り寛延三年(西洋暦一八一二年)再建した。

 明治に入り浅野家との関係は絶たれたが、広島の発展とともに広島市の中心に位置する「天満神社」の社頭の繁栄は目を見張るものがあった。繁華街の真ん中で「天神町の天神さん」と呼んで親しまれていた。

 祭礼は、とても賑やかで「学問の神様」、「書道の神様」として大変に持てはやされていた。

 空鞘稲生神社の氏子区域内にある崇敬神社で、空鞘稲生神社(広島氏中区本川町― 旧空鞘町鎮座)の境外摂社※である。

 昭和二十年八月六日に爆心地より三〇〇メートルという至近距離で被爆した当神社は、注連柱、狛犬等の石造物が若干残った中で幸いにも疎開していた御神体(木造)を残し全てが灰燼に帰した。

 様々な事情で復興が叶わぬまま時を過ごしてきたが、去る平成六年六月ようやく小祠を建立し、由緒ある「天神町の天神さん」の復興の一歩を踏み出したところである。

平成十三年九月     宮司記

天満神社の連絡先 空鞘稲生神社社務所

082−231−4476

※境外神社とは

 本社の同一境内地内または飛び地境内にあって本社の支配を受ける小社で、ご祭神・由緒関係等において本社に縁深い社を言う。

   
   20年近く経つと「平和のことよろしく 坂本文子」の文字はかすんでしまいほとんど読み取れない状態になっています。