16.長遠寺の鈴木三重吉墓碑とソテツ(中区大手町三丁目10−4)
   
   

 この大手町界わいは、その名のとおり幕藩時代には武家屋敷が並んでいたところで、そのころからの古い寺が多い。この日蓮宗 無量山 長遠寺は元和5年(1619年)に建立されたという。

 

入り口に、「鈴木三重吉墓碑」と書かれた看板が掲げられている。

読んでみよう。

鈴木三重吉(1882−1936)、広島市猿楽町で生まれ、本川小学校、広島一中、第三高等学校を経て東京帝国大学英文科に入学、在学中に夏目漱石の推薦で「千鳥」を雑誌ホトトギスに発表、次いで「山彦」「小鳥の巣」「桑の実」などを書いた。その後、児童雑誌「赤い鳥」を創刊ん、芥川龍之介、菊池寛、北原白秋らの協力を得て日本の児童文学を確立した。三重吉は、つづり方や自由詩を指導して児童の創造性を高め、また外国の名作童話の紹介にもつとめ、日本の児童文化運動に大きく貢献した。

 墓には「三重吉永眠の地・三重吉と渋の墓」と三重吉が生前に自書したものが刻まれている。

右が墓碑、左は鈴木家の墓。今年(1912年生誕130年祭を原爆ドーム横の鈴木三重吉文学碑の前で行う、という。

   
   墓の入り口左手に被爆したソテツが2基並んでいる。「被爆樹木 ソテツ 爆心から890m このソテツは、1945(昭和20)年8月6日の原爆で地上部を焼失しましたが、その後、根元から芽を吹き返しました。」と2本とも同じ説明板がついている。
   
   この辺りは全焼区域で、寺が再建されても戦後の区画整理でかなり移動している。それでも被爆前の寺の敷石の一部が残っていたりする。左の墓は、400年の歴史を窺わさせられる江戸時代のもの。黒ずんでいるのが被爆の証拠。
   
   左の墓は欠けていて大きな割れ目を持っている。原爆のすさまじさを感じさせる・。
   
   この墓には、「昭和二十年八月六日原爆死 次男 実 十八才」と刻まれている。合掌。

※このお寺の感想。中で被爆樹などの写真を撮っていたら、住職さんが出てきて、あれこれ色々熱心に教えてくれました。最近、お寺のお墓に入ってで勝手に写真撮ってたら、文句を言われることが結構多いので、余り寺の中には入りたくない気分でしたが、久しぶりに熱心な説明を聞くことが出来ました。住職さんは被爆二世だそうです。ここなら安心して人を案内できそうです。

写真はいずれも2012年9月15日撮影。