20.「興南寮跡」 歴史の皮肉を語る碑 (中区大手町四丁目8番)
   
 

万代橋の近く、元安川緑地に、ひっそりと、しかし碑文や、囲む立て札の名前の仰々しい、この碑がたたずんでいます。1976年に建てられ、1995年に移設、建て替えられています。太平洋戦争末期、「大東亜戦争」を正当化するために、占領地東南アジアから主に現地の、日本に友好的だった支配階級の子弟を「南方特別留学生」として広島文理大等に招いて、住まわせた「寮」の記念碑です。25名が住んでいたといいます。

 そのうち、名の被爆死が確認されています。元留学生の多くは、ここで被爆したものの、帰国後、日本で鍛えられた力で功なり名を遂げた人が多いようです。訪問するたびに、大学関係者らと、この碑の前や、犠牲者の墓がある五日市の光禅寺や京都(「オマール君を知ってますか」という書物も出されているといいます)で、慰霊祭が行われています。2002年8月28日にも、元ブルネイ首相ユソフ氏の孫3人が祖父の被爆の跡を訪ねた、と翌日の中国新聞に出ていました。エリートや支配者同士の友好の碑から、民衆レベルの友好の碑となることを願わざるをえません

碑文

この地は、かって興南寮であった。興南寮は、194年〜195(昭和1920年にかけ、広島大の前身である広島文理大や広島高等師範学校に在籍した東南アジアの南方留学生が住んでいた宿舎であったが、1945(昭和20)年の8月6日原子爆弾のせん光を浴び焼失した。

昭和19920日撮影(写真)

そばにブルネイ王国前首相ペンギラン・ユーソフ殿下

  インドネシア枢密議員 ハツサン・ラハヤ先生

  マレーシア大学教授 アブトル・ラザク先生

  マニラ大学総長 ヴェリヒリオ・デ・ロス・サントス先生

  フィリッピン神戸総領事 ハリム・アブパカール先生