21.本照寺「大亞細亞悲願の碑」(中区小町7−24)  
   
   寺の入口に「東京軍事裁判インド代表判事パール博士慰霊碑在當山」とあって、中にこの碑があります。
   
   

 「激動し変転する歴史の流れの中に道筋につらなる幾多の人達が万魁の思いを抱いて死んでいった。しかし大地打ち込んだ悲願は消えない。」

 「大亞細亞悲願の碑 抑圧されたアジアの解放のため、その厳粛なる誓いにいのちを捧げた魂の上に幸あれ ああ真理よ あなたは我が心の中にある その啓示に従って我は進む 1952年11月5日 ラダビドール・パール」

 昭和27年来広の際、日文源田松三とあります。インドがイギリスの植民地として苦しんで来た歴史を持つのは周知の通りです。アジアがヨーロッパの侵略の餌食になった中で、インドの方から見れば日本が英米と果敢に戦っているのは、胸のすく英雄的行為に見えたのかも知れません。現に日本軍をヨーロッパからの解放軍として喜んで迎えた地域もありました。それが、戦後アジアの国々の独立運動に発展したのも所によれば確かにあります。しかし大東亜と大亜細亜とに差は無いでしょう。その美名の元に、実は日本が天皇をいただいて、アジア人民蔑視の中でアジアに君臨しようとしたのが大東亜の実態であったことは否定しがたい事実です。パール博士の言葉を引用して大東亜戦争を美化しています。

なお、一口に「戦犯」と言っても、東条英機等「A級戦犯」や、本当に残虐行為をした人間も多いのですが、捕虜収容所の責任者だっただけの人、フィリッピン等へ心ならずも送られた人たちは、「私は貝になりたい」という映画にもあるように、同情に値する人達もおり、また、朝鮮人兵士、台湾人兵士で戦犯として処刑された人もいることは、心得ておく必要があります。しかし、このような形で慰霊されるなど、彼等にとっては二重の屈辱でしょう。

   
 

下にはこう記してあります。

「ベンガル語の慰霊碑文は、東京軍事裁判でただ一人真理と国際法に基づき日本の無罪を主張し原爆投下の非人道性を指摘したインド代表判事パール博士が、昭和二十七年の秋来広の際、斯の碑建立の趣旨に共感し半日瞑想推敲して揮毫されたものである。アジアの民族運動と戦禍にたおれた満蒙華印等動乱大陸の多くの人々の面影偲び浄石にその名記し石窟内に奉安、有志恒友相依起倚り碑を建立した。慰霊の式典をかさねること三十三回、昭和四十三年五月、恒友浄財を整え再建す。日文源田松三筆、英訳文エ・エム・ナイル、碑銘大亜細亜は宮島詠士先生遣墨に依る。」

その左に英文