22−1.県立一中追悼之碑、門柱、旧雑魚場地区周辺説明板、消えたプール (中区国泰寺町一丁目2) 
   
  1948年に建てられました。占領期に建てられた慰霊碑は「原爆」の文字が無いのが特徴です。爆心から約千メートル。当時1年生を除くほとんどの生徒が各種工場に動員されていました。(5年生は呉海軍工厰、4年生は東洋工業へというように。)
   
  原爆投下時、この1年生の半数が建物疎開作業でした。夏休み返上の作業だったため、午前7時半には登校していました。6クラスの内、奇数クラスは市役所裏の建物疎開作業に出発していました。偶数クラスは1時間後の交替にそなえ教室に残りました。そして8時15分。「あ!落下傘が落ちた、と叫んだ。パッと青白い光を南からうけた。アッと思った瞬間、また、ボッと白い光がきた。この時校舎は倒れていた。とつぜん屋根からなまぬるい風と、なまりの熱湯のようなものが体にふりかかった。とても熱かった。目の前は真っ暗になった。」と、当時の生徒は語っています。即死ないし焼死です。また、土橋方面の建物疎開に臨時にかりだされた勤労動員中の3年生50人も全滅しています。1958年には犠牲者367人の名を刻んだ「原爆死没者追悼の碑」が建立されました。

なおこの「追悼の碑」のすぐ東隣に、「行啓記念碑」が、さらに東にグランド手前に「明治天皇行幸記念碑」があります。

   
  旧制県立広島第一中学校は、1877年広島中学校として発足した広島で一番古い公立中学校で、現在の国泰寺高校です。校舎は全焼しましたが、正門の北隣(百メートル道路側)に「広島県立広島第一中学校」と書かれた門柱があります。知らないと何のことか判りませんが、知っている者にはあの日の惨状を語らんとしているかのように見えます。
   
   

また、このあたりは各種学校に囲まれた閑静な住宅地でした。建物疎開で追い出された為に、それが原因で幸運にも生き残れた町内会の人たちは、それをすまなく思い、1952年荒神堂(中区富士見町15−16・ 国泰寺中東側)内手前に「雑魚場疎開地の碑」という小さな記念碑を建てました。そして1995年?この国泰寺高校正門内左手に、「旧雑魚場地区周辺」の説明板が建てられています。(下の写真)

「旧雑魚場地区周辺(爆心地から約1.1キロメートル)

第二次世界大戦末期、空襲による建物の炎症を防ぐ目的で、木造家屋を解体する建物疎開が各地で実施されました。この作業には、隣組や職場の人たちで組織された義勇隊をはじめ、数多くの国民学校や女学校、旧制中学校の学徒も動員されました。原爆が投下された1945(昭和20)年8月6日、この雑魚場地区(現在の国泰寺町一丁目)では約2,500名の生徒たちが作業に従事していましたが、その多くが痛ましい犠牲者となりました。

(はめこまれた写真)市立浅野図書館屋上から旧雑魚場町の県立第一、第三(?)中学校を望む 米軍 ピーターソン氏撮影)」

   
   これらの碑の奥の方には1998年ごろまでは被爆プールが残っていましたので紹介しておきます。

消えた被爆プール(県立一中)

平和記念資料館東館地下には被爆者の書いた絵が常設展示してあります。NHK広島が1974年募集したもので、また再度募集について報じられています。その絵の中には川に飛び込んで浮かぶ被爆者の姿、防火用水に頭を突っ込んで息絶えている被爆者の姿が多く、筆者の脳裏を離れません。そのため、初期のフィールドワークでは、最初に国泰寺高校(県立一中)プールを案内していました。1998年ごろでしたか、国泰寺高校を案内したところ、肝心のプールが工事中だったことがありました。また「想像力を働かせる」には少し難しいということで、その後、コースから外して長らく覗いていませんでした。

2001年秋、ある機関紙に頼まれて「国泰寺町高校プールについて書こう」と、現場に行ってみましたら、すでに撤去されていて、きれいに芝生が敷き詰められていました。「工事中」と思ったのは「撤去中」だったようです。筆者は新聞記事にはこと細かく目を通しているので、例えば次のページのように、「防火用水撤去」の記事をみると、さっそく写真を残しておこうと、現地に出かけたり、観音小学校のプール(西区観音本町二丁目1番)の撤去などかなり大きく報じられていましたので、知っているつもりでしたが、国泰寺町高校のプール撤去については報じられていなかったのか、見落としていたのでしょうか。

ちなみに1号プールは県立一中(25b)、県立二中(現観音小学校)のは50bの公認プールが自慢だったといいますが、いずれも被爆した生徒でいっぱいになり、血の海となったことを、是非想像力を働かせてこの写真を見て頂きたと思います。(国泰寺高校内で1992年撮影。)