24.山中高等女学校、「殉国乙女の碑」等(中区国泰寺町一丁目9−30・荒神堂内)(中区千田町二丁目5番・千田第一公園内)
 
  山中高女は原爆で1年生120人、2年生240人、計360人中生存者一人という大変な被害を受けた学校。しかし、慰霊碑設立にいたるまで、戦後廃校となった上に、その設立の過程から数奇な運命をたどることにもなりました。



左の写真は2007年4月28日撮影
   
    山中高女は1887年、当時県会議員で女子教育に熱心だった山中正雄が、私財を投じて広島法律学校〜私立広島高等女学校を設立。のち、藍綬褒章も受けた創設者の名前をとって「山中高等女学校」となりました。国粋主義的な情操教育を特徴とし、小学校女子教員養成で名をあげ、全国屈指の女学校と言われ、現安田学園の創始者、安田リョウもここの卒業生です。1944年には学校は国に寄贈されています。戦後廃校となりましたが、広島大学が東広島市に移転するまでは、広大女子寮の名前が「山中寮」と称されていたのを覚えている方もおられましょう。

左の写真は2007年4月28日撮影
   
   

雑魚場町で建物疎開作業中に被災、死没した広島女高師生7人、同付属山中高女、教官、生徒387人、第二県女職員、生徒47人を祀っています。1952年建立。戦後学制改革で母校を失った2つの女学校の慰霊碑が仲良く並んでいます。(2年生41人中1人を除いて全員死亡した第二県女は1941年開校ですが、山中高等女学校とは直接関係無く、そのゆかりの新しい碑は、1996年8月広島県立女子大内に建てられていいます。)

1952年(昭和27年)荒神堂内に、県立第二高女の碑と一緒に建てられた碑はその名も「殉国学徒の碑」、碑文が余りにも大変だったようで余り宣伝されていません。新らしい碑の下に碑文を記しておきます。

   
   

1998年10月9日、元の敷地、「山中寮」のあった「千田第一公園」(千田公園は広大工学部跡、東千田公園は広大本部跡、千田廟公園は南区の千田貞暁を祀った公園、ややこしいのでお間違いないように)、に新しい「山中高等女学校趾(し)」と彫った記念碑が設置・序幕されています。約三十aン四方、高さ約一bの御影石製。表はご覧のとおり山中高等女学校址。裏は橘香会」、横に広島女子師範学校、同付属山中高等女学校、発祥の地 一九四五年四月一日と刻まれています。(左の写真、2007年4月22日撮影)

なお、2004年7月14日、遺族以外では初めて、被爆者の遺影を収蔵・展示している国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にここの同窓生が、五人が訪れ、建物疎開作業中に被爆死した当時の一年生十人の遺影と名前の登録を申請し受け付けられました。(2004年7月15日付け中国新聞、毎日新聞、朝日新聞)

                    


荒神堂内の碑文

慰霊碑

「ここに眠る殉國学徒達は太平洋戦争中寒暑をいとわず各種防衛作業に努めていましたが、昭和二十年八月六日 軍需工場や家屋疎開作業中はからずも原爆投下によって、うら若い生命を散華せられたのであります。この学徒達の純真な愛国の至情と その断末魔の苦しみをしのぶ時 まことに断腸の思いを禁じえません。私達は最も多くの殉難者を出したこの地に殉国学徒の碑を建てて永久にその英霊を慰める次第であります。」

(裏)

広島女子高等師範学校生徒七名

付属山中高女教官生徒387名

県立第二高女教官生徒47名

(お宮の左手に)

(表)殉国学徒之碑 広島女子高等師範学校

       付属山中高等女学校

(裏)昭和二十年八月六日学徒動員作業中原爆により教官四名、生徒三百八十二名平和の礎となる。 昭和二十七年八月六日 橘香会 遺族会建之

(表)殉国学徒之碑 廣嶋県立廣嶋第二高等女学校

(裏)昭和二十年八月六日学徒動員作業中原爆により教官二名、生徒四十三名平和の礎となる。 昭和二十七年八月六日  遺族会建之

入り口 左 原爆記念 雑魚場疎開地跡 の石柱あり