25.広島市役所(中区国泰寺町一丁目6) 
   
  1928年に建てられた旧庁舎では、戦時体制下の市民を戦争目的のために末端から動員、管理する役割が求められていた。1945年には市役所職域国民義勇団が編成され、徹底した防衛体制が取られていた。原爆は、ここから北へ1200mの上空580mのところで炸裂。建物は倒壊こそ免れたが、延焼し、市長をはじめ、多くの死者を出した。
 注意して置かなければならないのは、戦前は、市と言えども自治体と名はあっても、制度的に国の末端出先機関であったということである。そして、政令市になって以来、、「平和」を売り物にしてアジア大会を呼び込み、再び日本国家のアジア進出の先兵として中四国の中枢管理都市の役割を果たさんとしてきたということも。自治省のモデル都市、自治体とは名ばかりの、実質は戦前と同じ国の末端出先官僚機関に成り下がってきたという、特に荒木市長時代に出来上がった今までの広島市役所の姿も。韓国人被爆者の救援などに熱心に取り組んでいたという経歴を持つ前の平岡市長にしても、如何とも変えがたかったのが今までの広島市役所であった。秋葉市長も頑張っておられるが、保守的官僚機構をどこまでかえっれるか、その包囲網の中での努力には経緯を払うが、ことごとく議会や、すでに出来上がった官僚組織の抵抗にあってきた。明らかに浜井市長の時代とは違う。  写真はいずれも20013年4月3日撮影。
 
   

(1)本庁舎資料展示室

1985年に現在の市庁舎が建て替えられ、被爆建物であった旧庁舎は、多くの論議の中で一部だけ保存されることとなって、前庭部分に設けられた旧庁舎資料展示室とその周りだけになっている。旧庁舎資料展示室は、平和公園にある資料館の一寸趣きの違うミニ版。8月6日と市役所の開いている時間帯ならいつでも入れる。無料。

(焼けただれた市役所本庁舎 1945(昭和20)年12月末頃 米軍撮影)写真

   
   

説明文「広島市役所本庁舎(爆心地から約1キロメートル)

鉄筋コンクリート4階建の市役所には、広島県防空本部が置かれていたこともあり、この周辺は建物疎開によって空地化され、焼夷弾などの対する防火体制が整えられていました。しかし、人類史上最初の原爆投下により猛火に包まれ、内部はほとんど焼きつくされ、中にいた数多くの職員が犠牲になりました。火災のおさまった後は、助けを求める多くの負傷者を収容し、臨時の救護所となりました。

   
   

(2)広島市役所のサクラ              

 市役所本庁舎の正面向かって右に樹が多く植えられているが、その中に注意して見ると「被爆桜ソメイヨシノ」と表示された樹がある。市役所の被爆サクラである。
以前は議事堂の建物と取り壊された旧本庁舎の間に一本ぽつんと目立って立っており、市役所の人なら知っている人は沢山いたが、被爆建物であった旧庁舎取り壊し後、ここに移されてからは知らない人の方が多いだろう。毎年花を咲かせている。守衛さんに聞いたらわかる。

   
   

(3)市職員慰霊碑                  

 広島市役所本庁舎の前庭にある。市役所でも、史員358人、雇・庸人推定1350 人いたと推定されているが、粟屋仙吉市長以下280人の犠牲者を出した。数が少ないのは、防空体制を取っていたため、輪番で当日は午後から出勤予定の職員が多かったためと、犠牲者の数を把握するのが困難という事情による。
 救護の責任ある役所であるため、避難民が続々と押しかけてきたが、炎に包まれたため、この隣の空き地に取り合えず避難したという。市役所内で犠牲になったのは女性が多かったという。負傷した職員も、救護活動でおおわらわであった。当時配給課長だった故浜井信三市長が、救援の中心として活動したという。慰霊式は、8月6日の前日に行っている。