28.広島県立第二高等女学校記念碑     (南区宇品東一丁目1番県立広島大学構内)

 

1996年8月の中国新聞に、戦争、原爆と戦後の混乱で、8年の歴史を持って消えた広島県立第二高等女学校(第二県女)の同窓生たちが、校舎があった広島女子大キャンパスに新たに母校の記念碑を建設すると報じられていました。「戦時下に青春を生きたあかしを残しておきたい」と、いうことです。同窓生の大半が学徒動員で被爆し、当時の二年生は半数が死んだといいます。(それまで「殉国学徒の碑」として、山中高女の碑と共に、国泰寺町一丁目の荒神堂にあって、そこで毎年慰霊祭をしておられましたが、碑文に問題があり、同窓生皆で祀れる内容でなかったのでしょうか。)

「あの日」は、4年生までの約300人の生徒たちがそれぞれの動員先に分かれ、爆地から約1.1キロの中区国泰寺町一丁目で建物疎開の片付けや、工場や練兵揚で作業をしていました。建物疎開などの屋外作業に出ていた二年生たちが、息も絶えだえに帰って来た、皮膚はわかめのように垂れ下がっていたといいます。四十三人の被爆死が記録されています。

記念碑は、県立広島女子大の敷地南側の塀のそばにあります。外からも下記の説明碑文が見えます。

 

「碑文

 昭和16(1941)年広島女子専門学校 現在の広島女子大学の敷地内に開校する。

昭和20年8月6日勤労学徒動員中原子爆弾投下により教師、生徒多数の尊い命を失う

昭和23年4月学制改革で広島広南高等学校として新発足したが翌年高等学校の編成替えにより閉校となる。

平成8(1996)年同窓会之建」