35.住吉神社の松と消えた凱旋碑、住吉橋記念燈(中区住吉町5) 
   
   

1)松

 爆心地から千三百メートル。神社社務所は原爆で焼失。しかし、1993年訪れた時は、松2本、クスノキ、エノキ1本づつは、残っていました。石造りの灯籠等も被爆遺跡でした。大きい松は国道2号線のそばにあり、注意すれば国道を走りながらでも見えます。。小さい松には、昭和七年十月聖上陛下記念松の石柱が添えられていましたが、国道2号線からも見えるマツを除いて数年後の住吉神社の改築の際、全て撤去されています。松というのは、どれが被爆樹か本を読んだだけでは判りにくい樹で、宅和先生は行って見たけれどどれがそうかわからずへたりこまれ、変わりに下の凱旋碑を見つけたといいます。筆者は宮司さんに運良く尋ねることが出来たので判ったが、戦争経験の無い、こんな調査する駆出しの頃の経験浅い、戦後生まれの身には下の凱旋碑には気づきませんでした。松は2本、黄色いプレートがついているので判ります。

写真は2012年9月15日撮影

   
   写真は2012年9月15日撮影
   
   (2)消えた凱旋碑                     
 鎮守の森と呼ばれる社は、元は庶民の現世御利益の神様を祀る、日本人の心の故郷でもありました。それが明治維新以降、神道のもと皇国思想を庶民に植えつける場に利用されるようになり、戦時体制に入ってから全面的に思想統一に利用されるという不幸な歴史を持つことになりました。住吉神社の境内、川を背に「奉納」と刻まれた軍扇型の石碑に、2本の錆ついた砲弾と巨大な錨が1993年、訪れたときは写真のようにありました。輝かしい凱旋のしるしです。「平和都市」広島の街のど真ん中にも、一寸判りにくい場所にこのような凱旋碑がありました。どう理解すれば良いのか、足どりは重くなったものですが、その後の住吉神社の改築とともに松だけを残して全て撤去されました。
写真は1999年春撮影
   
   

(3)住吉橋記年燈

住吉神社の松を確認・撮影しに2003年6月、行ってみたところ、この記年燈に気がつきました。爆心から1300mというから、丈夫な石造りのためか被爆の痕跡は余りはっきりしませんが、全焼地域で倒壊を免れた被爆遺跡には間違いありません。碑文を読めば、以前1993年の調査では、見当らなかったのが合点がいきます。

「住吉橋記年燈」(説明板)
住吉橋は、浅野藩の時代、広島城防衛のために架橋は許されず、往来は渡し舟のみで人々は不便をかこっていた。明治四十三(一九一〇)年、本川(旧太田川)を挟む両地元住民の出費を基に、待望の木造架橋が完成した。
 住民の喜びは大きく、その思いは橋の袂への「記年燈」建立となった。当時、本川は広島と瀬戸の島々とを結ぶ水上交通の安全も祈って常夜燈を模したものと思われる。
 昭和二十年八月六日、原子爆弾による爆風・豪火で一帯は焦土と化したが、記年燈は奇跡的に倒壊を免れた。
 平成五(1993)年、太田川高潮対策事業における堤防工事に伴い、記年燈はやむなく撤去されることとなった。記年燈建立への想いや地元民の苦難の道を偲んでいたくこれを惜しみ、強く保存を願い出た。その結果平成八年九月十八日、もとの位置に復元することが出来た。
この経緯を胸に、記年燈がいつまでも地域住民の心を照らすことを願うものである。
平成十二年四月吉日 本川を挟む両地域住民
住吉町町内会
舟入町町内会」


写真は2012年9月15日撮影