34.千田小学校(中区東千田町二丁目1) |
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(1)正門入ってすぐ右にこの小学校の原爆慰霊碑があります。(2012年1月27日撮影)
(表)
原爆犠牲 教師と学童 追憶の之碑
1976年8月 千田国民学校 遺族会
(裏)
教師名 新藤 純江 外2名
学童名 加川弘子 外40名
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(2)東門内のエノキと外のクスノキ
原爆をうけた木「えのき」(説明板)
この「えのき」は国泰寺町あたりで原爆を受け、焼けただれた木ですが、いちはやく生きかえり新芽を出したものです。昭和23年ごろに学校緑化のためゆずり受けこの場所に植えた物です。爆心地に向かっていた幹や枝に原爆のツメあとがたくさん残っていますが、植えつけた時は木の向きが代わり、ここでは原爆のツメあとは、爆心地の反対側になっています。
このもっと南に見えるクスノキの中にも被爆樹があるという。
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(3)千田小学校東門内の遺跡 (2012年1月27日撮影)
小学校東門内には上の被爆樹「えのき」の外に、被爆樹、被爆遺跡がたくさん集められている。「平野橋の橋柱」、御銀婚記念松、大正十四年五月、千田町二丁目、と記された「碑」、昭和御大典、昭和三年と記された「碑」、暁部隊の生き残りによって建てられた小さな碑もある。門柱や焼却炉らしき物も被爆遺跡ではないかと思われる。 |
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(4)吊魂碑等 (2012年1月27日撮影)
かって、正門内を入って直ぐ右にあった。「吊魂碑」とある物、何のことかと見れば「学習の犠牲となった生物のために 昭和三年十二月」と書いてある。
又、平野橋の橋柱、古い門柱も明らかに被爆遺跡だ。ここから見える広島大学の東門もその古さ加減から被爆遺跡ではないか、と思われる。 |
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(5)ひばくじゅ木 カイヅカイブキ (2012年1月27日撮影)
(説明板)
ばく心から1,690m
千田国民学校は、1945(昭和20)年8月6日の被ばくで校しゃが全焼し、こう堂の曲がった鉄こつだけが取り残されました。戦後、ひばくしたこう堂の鉄こつは、し育しゃとしてさい生され、げんざいも利用されています。これらのカイヅカイブキは、し育しゃとともに、学校内で原ばくにもたえ、生き残りました。
「銀婚式紀念樹」という碑(被爆遺跡)が中央にあります。
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(6)大飼育館ー千田国民学校講堂、爆心から1690m。(2012年1月27日撮影)
(説明板)この場所にあった講堂は、昭和20年8月6日に被爆し、焼け落ちましたが、その講堂の鉄骨を利用して昭和32年5月6日に大飼育館として開館しました。
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(7)ひばくじゅ木 マツ (2012年1月27日撮影)
ばく心地から2150m
このマツは、千田町三丁目にあったマリヤようち園でひばくしたもので、戦後、い植されました。
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(8)「月下を行く」碑 (2012年1月27日撮影)
この像は、原爆で破壊され焼き尽くされた夜の広島を、肉親をさがしもとめながら淡い月光に照らしだされた廃墟の中をさまよい歩く人の姿をあらわしたものです・。
今日の広島の発展は、このような苦しみをあじわった人々の努力によって築かれました。
そのことに思いをよせ、感謝の気持ちをこめて、この像は作られたものです。
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(9)千田小被爆アオギリ2世 (2012年1月27日撮影) |
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まだまだいくらでも注目に値する碑や遺跡があります。元船舶通信隊幹部候補生隊 有志一同
昭和46年8月6日とある碑(右)
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記念植樹若潮千通会という碑もあります。 |
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