37.元萬象園の屋形灯篭・礎石   (元中区羽衣町1番) (中区基町6・NTT西日本基町通信センタービル前)
   
    縮景園に次ぐ古くからの庭園で、被爆樹、被爆遺跡が多くのこっているはず、と目をつけていた萬象園(爆心から約1.5キロ)について、一度調査を、と気になっていましたが、2002年5月1日、メーデーの帰り道、NTT慰霊碑の裏に、このようなものに出くわし、ビックリしました。庭園はどうなるのか心配でしたが、ついに2003年4月24日の中国新聞に「消える旧浅野藩の遺産 広島の萬象園取り壊し」と報道されてしまいました。5月8日の中国新聞では佐伯区観音寺の住職さんが復元に協力を呼び掛けておられました。今は「広島城周辺徒歩コース」の途中にあるものですから、足を止めてよく説明しています。
 「萬象園の屋形灯篭・礎石
ここにある屋形灯篭と礎石(手前は殿様の腰掛石と呼ばれていました)は萬象園(広島市中区羽衣町1番30号)より移設されたものです。
萬象園は、1657年(明暦3年)、浅野藩筆頭家老、三原浅野家により別邸として創始され明治維新にいたり、その後は分割譲渡されながらも、1958年(昭和33年)まで浅野家により所有されてきました。
庭園の様式は「池泉回遊式」で元安川の景観を借景とし大小様々な石組みによる庭園でした。
萬象園の名づけ親は郷土が生んだ国文学者頼山陽とされ、当時から縮景園に次ぐ名園と言われてまいりました。
この名園を1959年(昭和34年)に当時の日本電信電話公社が購入し、1960年(昭和35年)4月に職員の福利厚生施設として「中国電信電話会館 萬象園」を開設いたしました。
その後、宿泊、結婚式にと、広く広島県内や全国の皆様にご利用いただけるようになり、庭園のある宿泊施設として好評を博してまいりましたが、近年においてはご利用いただく方々のニーズも大きく変化し、閉館することとなりました。
その閉館にあたり、萬象園に関する歴史と文化を後世に伝えるため、庭園内にあった屋形灯篭と殿様の腰掛石と伝承されてきた礎石を当時の面影を偲びここに移設し保存することといたしました。
2002年(平成12年)4月 西日本電信電話株式会社 広島支店」
   
   (1999年冬、、催しがあって、中区羽衣町にあった時、中に入って貰ったパンフレットには次のようにありました.。2枚はその時撮った写真。池の石部分は被爆遺跡、樹木ではこの中のクスノキ、マツ、クロガネミチが被爆樹だと確認されていましたが、さてどうなったことやら。)
   
   「萬象園の由釆
 この庭園は、今から450年前安芸の国四十二万石の城主浅野公によって造られ、明歴年間(西歴1656年頃)筆頭家老の三原浅野藩主(三万石)が、浅野五代城主綱晟公から船屋敷として賜わり、以来終戦直後まで代々三原浅野家の別邸となっていました。
 かつては、その地積約7,000坪、庭園の様式は「大名池泉回遊式」で元安川の景観を借景とし大小様々な右組みによる庭園として、当時から縮景園につぐ名園といわれていました。
 庭内には、南薫・梅花坪・一新亭など美景を現わす萬象の園があり、その幽玄な自然美は郷土の生んだ国文学者頼山陽をして萬象園記を記させたといわれています。
その後、幾星霜、地積は当時の4分の1(1,800坪)となり、又昭和20年の原爆で茶室等は焼失したものの庭の石組みや殿様の御座石、老松古本など今なお当時の面影を偲ぶことができます。
毛利公から浅野公に贈られた「山口形雪見燈籠」」