38.吉島刑務所塀と安野発電所(中国人被爆者・捕虜労働) (中区吉島町13・山県郡加計町) 
   
    被爆当時、吉島刑務所に服役していた囚人は約400人。爆心から約2キロの刑務所内で被爆した囚人達は、この大きい塀(被爆遺跡)に守られ、比較的元気だった為、100人ずつ4班に分けられて、爆心地方面の救援に特例的に駆り出され、さらに放射能を浴びる事になったと公文書にありました。しかしその後の証言では、この塀のなかも建物が崩壊して下敷きになるなど大変な被害があったと、収監されていた中国人捕虜(被爆者)の口から明らかになってきています。
   
   

なぜ、中国人が?被爆直前に、広島市の北部、山県郡加計町の安野発電所で中国から強制連行(といっても敵性国民ゆえ全くの捕虜扱い以下、戦利品、牛馬に劣る扱い)されていた357人は、中隊毎に4つの収容所に分けられ、8kmに及ぶ導水トンネル掘りなどの作業に従事させられました。
 『外務省報告書』によっても、負傷者112人、罹病者269人、死亡者は29人にのぼっています。その中国人が、反乱を起こし殺人容疑で逮捕され、この広島刑務所に送られていました。1945年7月のことです。「事件」後、自ら名乗り出た11人(事件とは無関係の人も多い)が逮捕され、広島刑務所に収監されました。8月6日、11人は被爆しましたが、全員生き残りました。11人が逮捕された後、2度目の逮捕があり、班長たち5人が首謀者として逮捕されました。5人は広島市内の爆心地近くで取調べを受けていて、被爆し死亡したとされていますが、被爆地点は今も不明です。なお新潟、北海道で「国防保安法事件」で逮捕された3人もここで被爆しています。(生存)

つまり、中国人19人が被爆、その内5人が被爆死したと言われています。この人達の調査のために広島に住む女性が1992年渡中、以降、被爆者・犠牲者を発掘調査した結果です。

被爆して帰国した14人は、原爆の後遺症を背負って病苦と闘い続けてきました。

 1992年に出会った徐立伝さんは、その時すでにアゴのガンに冒されていて、3ヵ月もしないうちに亡くなりました。94年に消息が確認された于瑞雪さんは、95年6月、肝硬変で亡くなりました。

 当時は自由に話をすることも許されなかったので、互いの名前や出身も知らず、帰国後も連絡をとることができませんでした。文化大革命の時代には、日本に行っていたというだけでスパイ扱いされたので、医師にも被爆したことを話せない人もいます。何の援護も受けることなく、病気や辛い思いを抱えて孤独に生きてきたのです。

1993年8月、半世紀ぷりに広島を訪れた安野の生存者・呂学文さん(2003年8月、82歳で死去)と孟昭恩さんは、西松建設中国支店(広島市)を訪ね、謝罪と補償を求めて交渉しました。しかし、西松建設は「強制連行は国策であり、企業には責任がない」と、2人の要求を拒否しました。その後、生存者4人と遣族1組も同じ要求を提出しました。1995年5月にはトロッコ事故で両目を失明した宋継堯さん、8月には被爆死した遺族が来日し、西松建設と交渉しましたが、西松建設は国に責任を転嫁して企業責任を認めず、かたくなに要求を拒否し続けました。
 日本の敗戦からちょうど50年にあたる1995年8月15日、河北省保定市に集まった安野の生存者・遺族は「安野受難者労工聯誼会」を結成し、強制連行と原爆披害の真相究明、公式謝罪、賠償などの要求を日本政府と西松建設につきつけました。「安野受難者労工聯誼会」はこの闘いを、名誉を回復し、民族の尊厳をとり戻す闘いであると位置づけています。

   
   

呂学文さん、邵義誠さん、宋継堯さんたちは、西松建設と繰り返し交渉を重ねてきましたが、西松建設の無責任極まりない姿勢に、交渉で問題を解決することはできないと判断し、1998年1月16日、広島地方裁判所に提訴しました。2002年7月9日の地裁判決は、事実認定と西松等の道義的責任を問いながらも、「時効による棄却」でした。

しかし、2004年7月9日、控訴審で、広島高裁の鈴木敏之裁判長は九日、原告の請求を退けた一審判決を取り消し、西松建設に全額賠償を命じる原告側逆転勝訴判決を言い渡しました。 「時効の主張は権利の乱用に当たる」として時効を適用せず、一人当たり五百五十万円の支払いを命じました。 ついにむくわれはじめました。

下の写真は、ひどい待遇で、失明せざるをえなかった、原告、宋継堯さんを迎えての、「支援する会」の集会。