41.  広島貯金局の跡マンション(「生ましめんかな」の詩の舞台)(中区千田町二丁目15) 
   
   

電車通りの左手、広島大学跡地の反対側に、下の栗原貞子さんの「生ましめんかな」の詩で有名な広島貯金局がありました。、1989年取り壊された跡に2003年春、新築マンション(千田町アンスタワー)が建ちました。2004年春、石碑の説明板がたっているのを確認しました。それにはこうあります。


「広島貯金支局(爆心地から1,600メートル) 1945年(昭和20)8月6日午前8時15分 原爆の強烈な爆風のため 鉄筋4階建庁舎の窓ガラスはもちろん 書棚や机・椅子が吹き飛び 職員の多くが死傷した 庁舎周辺は猛火に包まれたが 建物に踏みとどまった30数人の職員の消火活動で 消失はまぬがれた 散乱した貯金原簿カードの収集・整理には非常に苦労した。
(南東から望む広島貯金支局 撮影 川本俊雄 1945年10月中旬)」

   
 

米寿を迎えた栗原貞子さんと「アオギリの語り部」沼田鈴子さんが、「うましめんかな」の赤ちゃんのモデル女性を囲んで。(2001年3月)

残念ながら、原貞子さんは2005年3月6日、92歳の「反戦」で貫かれた生涯を閉じられました。沼田鈴子さんも2011年7月12日、87歳で亡くなられました。

 

下にご冥福を祈り、「生ましめんかな」とともに、栗原貞子さんの代表作の一つ『ヒロシマというとき』 を掲載させていただきます。

生ましめんかな

こわれたビルディングの地下室の夜だった。

原子爆弾の負傷者たちは

ローソク一本ない暗い地下室を

うずめて、いっぱいだった。

生まぐさい血の匂い、死臭。

汗くさい人いきれ、うめきごえ

その中から不思議な声がきこえて来た。

「赤ん坊が生まれる」というのだ。

この地獄の底のような地下室で

今、若い女が産気づいているのだ。

マッチ一本ないくらがりで

どうしたらいいのだろう

人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

と、「私が産婆です、私が生ませましょう」

と言ったのは

さっきまでうめいていた重傷者だ。かくてくらがりの地獄の底で

新しい生命は生まれた。

かくてあかつきを待たず産婆は

血まみれのまま死んだ。

生ましめんかな

生ましめんかな

己が命捨つとも

         1945年8月 栗原貞子    

 

                   

『ヒロシマというとき』 

〈ヒロシマ〉というとき

〈ああ ヒロシマ〉と

やさしくこたえてくれるだろうか

〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉

〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉

〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を

壕のなかにとじこめ

ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑

〈ヒロシマ〉といえば

血と炎のこだまが 返って来るのだ

 

〈ヒロシマ〉といえば

〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは

返ってこない

アジアの国々の死者たちや無告の民が

いっせいに犯されたものの怒りを

噴き出すのだ

〈ヒロシマ〉といえば

〈ああヒロシマ〉と

やさしくかえってくるためには

捨てた筈の武器を ほんとうに

捨てねばならない

異国の基地を撤去せねばならない

その日までヒロシマは

残酷と不信のにがい都市だ

私たちは潜在する放射能に

灼かれるパリアだ

 

〈ヒロシマ〉といえば

〈ああヒロシマ〉と

やさしいこたえが

かえって来るためには

わたしたちは

わたしたちの汚れた手を

きよめねばならない

(『ヒロシマというとき』一九七六年三月)