42.広島電鉄 被爆電車 慰霊碑 変電所  (中区東千田町一丁目9−29)


 
   
   

あの日、市内を歩いていたら横倒しになった電車があった。中を覗いてみると、運転士は運転の姿勢のまま、乗客は吊り革にぶらさがったまま、動かなくなっていた。まるでロウ人形を見ているような不気味さだった(被爆者の手記より)

 入口左には「広島電鉄原爆慰霊碑」があります。当時、運転士も車掌も女性が多かった。この慰霊碑に納められた過去帳の記名者の数は171名。職員・艇身隊・乗務員養成の家政学校生徒・女子艇身隊・学徒義勇隊等多岐に渡っている犠牲者の中で、ひときわ女性が多いのが特徴です。

   
   車庫を覗いてみると、廃止された全国の電車や、ドイツの電車等様々な電車の中に、幸運なら今も現役で走っている2両の「651型、652型被爆電車」を見ることができます。2006年春、653型、と654型の2両の被爆電車が現役を引退し、現役引退する2両の車両も「平和学習」には引き続き活用されるそうですが、そのうち654型は交通博物館に移転され、交通博物館で常設屋外展示と報道、、残った現役2両は平和への励ましのメッセージ受け走行中です
   
   
   
             
   
   了解を得たら、自由に中に入って乗れます。運転席の後ろには「650型電車の由来」という説明板に「人類史上初の原子爆弾により被爆した」とあります。当時の女学生は軍都の重要な交通を担うことを誇りとし、この新型電車を運転するのは鼻が高かったといいます。
   
   

1912年に中心部3路線から始まり、1928年には観光路線として宮島口まで開通、太平洋戦争末期(1944年12月)には軍事路線として比治山線、軍需路線として三菱徴用工(強制連行された朝鮮人を含む)等も乗せた江波線が開通しています。 保有車両123のうち15両を残すのみとなりましたが、8月9日にはもう最初の電車が動き出し、廃墟の中で多くの被爆者を勇気付けました。

(15Km離れた廿日市変電所からの送電によったそうです。)

   
   現在二つの煉瓦造りの建物(研修所と、右の白く塗ってあるのが変電所)が残っており、今も皆さん、中で働いておられます。
   
   

また、被爆電車は現役ですから時々のりあわせることがあります。下の写真は偶然乗り合わせて、御幸橋電停で降りたところで撮影。(2001年冬)

また、西広島ー宇品間電車に乗ってみたら653型被爆電車でしたので、内部から写真撮りました。(2003年6月5日、1番下の写真)。

今後は2台だけになりましたので、遭遇する機会も減ると思われます。(主に通勤ラッシュの時間帯に走らせるとのことです。)

爆心直下の相生橋の被爆敷石がモニュメントになり設置されたと2013年3月12日付け中国新聞ホームページに出ています。