44.修道学園 平山郁夫「歴史に生きる」碑、修道中学慰霊碑、顕徳碑 (中区南千田西町8ー1・修道学園) | |
(1)平山郁夫「歴史に生きる」碑 | |
1948年に建てられた古い慰霊碑のすぐ奥に、ハンドブック作成直後に建てられています。平山郁夫はここの卒業生です。 「歴史に生きる 平成五年八月六日 東京芸術大学学長 平山郁夫」 その下の銅板レリーフの碑文があります 「旧陸軍兵器支厰は、昭和19年9月から昭和20年8月15日まで旧修道中学生が学徒勤労による動員で作業に従事した場所である。昭和20年8月6日3年生を中心とした多数の生徒がここで被爆した。このたび旧陸軍兵器支厰倉庫の最後の一嶺(現在広島市南区霞一丁目広島大学医学部構内)が取り壊されるにあたり、当時の動員学徒有志の醵金によって、その外壁 煉瓦を本校で保有するに至った(写真は旧陸軍兵器支厰倉庫 煉瓦はその一部) 平成5年(1993年)10月16日 修道中学校 修道高等学校 裏 贈 被爆当時修道中学校三年生有志」 写真はいずれも2013年3月16日撮影。 |
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(2)修道中学校慰霊碑 | |
修道高校内に入ると右手に下の顕徳碑が目につきます。さらに右手を奥に入るとこの素朴な石柱の慰霊碑があります。裏面に犠牲者203人の氏名が記してあります。2年生が半数以上です。市役所方面、雑魚場町で建物疎開にあたっていて全滅したということです。1948年、プレスコードが敷かれていた占領下で、学校内に原爆の文字を削って建てた初期の慰霊碑です。 | |
(3)修道中学校顕徳碑 | |
爆心地から約2.3キロ。全焼地域ではありませんが、被爆遺跡として紹介させて貰います。難しい漢文の羅列になるこの顕徳碑は、何と書いてあるのかおぼろげながらしか理解出来ません。言わんとしている事は、旧藩主浅野長勲が明治11年私立浅野学校温知館を開設したのに始まり、それは明治19年県立中学校へ引き継がれたが、廃校当時の校長が私塾として修道学校を開き、これが明治38年に認可されて私立修道中学校になったという、歴史的にも広島で最も古い由緒ある学校であるという事を述べているのでしょう。裏に昭和7年9月建之とります。 | |
(4)修道学問所蔵(旧広島城郭内の蔵) | |
前の説明板にはこうあります。 「修道学園は、東区愛宕町にありました旧広島城郭内の蔵の移築・復元工事を行っております。 この蔵は「、きゅ広島城内から移築されたものであり、広島市街地に現存する優位角江戸時代の土蔵であります。また被爆建物でもあるため、歴史的価値の高い建物であるとの評価を受けております。 さらにこの蔵は、修道の淵源であります広島藩学問所にあった可能性が高い」との見解も示されております。 このたび修道学園はこの土蔵を譲り受け本校の敷地に移築・復元することといたしました。 これにより歴史的に貴重な建物を次世代にまもりつたえると共に、修道学園が広島藩の犯行としての伝統を継承していることを具体的に示すことになると考えております。 復元がなった後には、広島市に文化財指定の申請を行い、この地で恒久的に保存してまいります。 学校法人 修道学園。」 |
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(5)修道学園門柱 | |
この門柱も被爆遺跡になります。 |