9.消えた広島大学医学部1号館、11号館(陸軍兵器支厰)  (南区霞一丁目2)
   
    南区霞町・旧国鉄宇品線東側の広島大学医学部・同大付属病院と、その後方にある広島県警警察学校・機動隊の広大な敷地が旧広島陸軍兵器支厰の跡地です。この2つの建物だけが残っていたましたが、1号館は1993年2月5日取り壊されてしまいました。下の11号館も長く資料館・食堂として使用されてきましたが、1999年、医学部正面入り口に解体・復元・移築されてしまいました。新医学資料館は、古いレンガや石、を外壁や屋根、窓枠等に再利用していますが、もはや被爆建物とは言えない代物になってしまいました。

左の1号館は1992年12月13日撮影
     1897年中区基町に大阪砲兵工廠広島派出所が設置され、これが1905年広島陸軍兵器支厰に昇格、1907年には同兵器庫を設置、1918年に霞町に移転しまし「た。しかし、その翌年、火薬庫が大爆発をおこしたために、この年、火薬庫を似島に移転しました。戦争末期にはここにも多くの子供達が勤労動員でやって来ていましたが、被爆時には比治山の陰になっていたこともあって、倒壊を免れ、1957年から広島大学医学部・同大付属病院等として使用されてきました。しかし、1970年代以降、18棟あった赤レンガ建物は、次々に取り壊されていき、今は、正面入り口にしゃれたレンガ壁の資料館にかっての面影を思い起こさせるのみになっています。

左の1号館は1992年12月13日撮影
   
  左の11号館は2002年5月11日撮影
   
   左の11号館(資料館)は2012年5月4日撮影


説明板にはこうあります。

「広島大学医学部11号館

 明治27年に勃発した日清戦争をきっかけに広島は軍事都市としての性格を強め、市内に多くの軍事施設が設置され、この地にも兵器支廠(軍用倉庫)として11棟の2階建レンガ造群などが建設されました。

昭和20年8月6日、原爆に被災したものの、比治山の裏で建物に大きな被害はなく、臨時救護所として罹災者の救援が行われました。戦後は広島県庁などに、その後、広島大学医学部に移管されましたが、施設整備の拡大に伴って次々に姿を消しました。最後の1棟となった11号館は、医学部創立30周年を記念して設置された医学資料館などとして利用され続けて来ましたが、新病棟の整備に伴い平成11年3月に取り壊されました。

 この建物が大正初期の建造物であり、広島市被爆建物等保存・継承建物であったことから、新しく医学資料館を建設するにあたり、玄関を中心としたレンガ壁及びほとんどの石材は11号館に使用されていたものを利用し、外観はほぼ完全な形で復元しました。」

   
   左の11号館(資料館)は2012年10月13日撮影
   
   左の11号館(資料館)は2012年10月13日撮影
   
   (医学資料館になっている内部の写真=2012年10月13日)
   
   (医学資料館になっている内部の写真=2012年10月13日)