25.県立広島工業高校 慰霊碑 門柱 顕徳碑(南区出汐二丁目4)
 
  皆実高校と入る道は一緒。そのまま真っ直ぐ入れば県立広島工業高校正門で、中に入るとその左手にあります。高校野球によく出場しているため、その関係の記念碑の方が、広島商業高校同様目立ちます。すぐ裏が現在市内最大の被爆建物で話題になっている旧陸軍被服支厰(日本通運出汐倉庫)であり、ここからも見えます。
   
   

(1)県立広島工業学校慰霊碑

碑文「慰霊 雨の日も 風吹く夜半も 鎮もりて み魂よ まもれ わが学び舎
被爆当時、学校は千田町二丁目にありました。現在の千田公園の北にあたります。爆心から約2キロ。全焼地域の境目にありました。校舎は倒壊。学校は工業学校ゆえその施設も利用して工場になっていて多数の生徒が校舎の下敷きとなり死亡したといいます。詳しくは不明。1年生187人は、教師3人と一緒に県庁付近の建物疎開に動員されていました。遺体は骨もまともに残らず全滅しました。弁当箱や靴などを遺族はやっと見つけて死亡が確認出来たのはましな方であるといいます。戦後一時、学制改革によって校舎も名称もなくなり、皆実高校工業科となりましたがたが、1953年、県立工業高校として現在地に独立しました。

   
   

 碑は同窓会の手で1962年8月6日に建立。明治時代に建てられたレンガ造りの広島県職工学校の校門(千田町にあった物、被爆遺跡ー左)を背にして建っています。職員4人、生徒182人の氏名が刻んであります。

 

   
  (2)県立広島職工学校顕徳碑      (南区出汐二丁目4・広島工業高校)

広島工業高校の前身、県立広島職工学校顕徳碑で、1898年開校の第1回卒業生から第13回卒業生までの同窓生の手により建てられた物で、千田町の地で被爆した遺跡です。文字は良く読めません。慰霊碑の左手に立っています。