26 .黄幡神社 社殿と戦捷紀念碑 寄付碑 石灯籠等(南区北大河町丁目23−16) 
   
   

人類史上最初の原子爆弾が1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分広島市中心部の上空約580メートルでさく裂、一瞬のうちに街は焦土と化しました。

地元では黄幡社として親しまれている真幡神社も、昭和初期に建てられて神殿と拝殿の屋根が吹き上がり、柱も折れるなどの大きな被害を受けました。戦後、応急修理がなされましたが、拝殿の柱や床板の腐朽が進み、土壁が崩れ落ちるなど、危険な状態になりました。

このため、2000年(平成12年)、地域の方々の善意と広島市被爆建造物等保存・継承事業の助成により、保存工事が実施され、被爆の惨禍を後世に伝えています。」

正式名称は「真幡神社」かも知れないが、入口門柱上には「黄幡神社」とあるので、黄幡神社の名前を採らせてもらう。

2012年10月18日撮影。

   
   
   
   1993年、大河町町民慰霊碑を撮影して返る途中、市内にまだまだ残っていると言われていた戦捷紀念碑にぶつかった。陸軍少将正五位勲二等功三級 澤靜夫書と刻まれている。裏を見ると、日清、北清、日露戦役とあり、松本某外86名の氏名が刻まれ、明治四十年五月建之となっている。車の入りにくい狭い舗装道路に面して堂々と立っている。ここは爆心地か地爆心から地メートル。被爆遺跡と言うには一寸遠いが、慰霊碑と戦捷碑が仲良くしているこの事はどう考えて良いのか。右の写真は1994年8月6日。 (初期の「宇品・比治山方面自動車コース」フィールドワークのコースに入れていたが、その後道路網が整備・変更されたため今はコースから外している。)

2012年10月18日撮影。
   
  地蔵寺と隣り合わせに広い空き地を持つ黄幡神社がある。この広場に話には聞いていた「戦捷紀年碑」があるではないか。裏にははっきりと日清・北 清・日露と書かれ、この地区からの従軍兵士の名が刻まれている。「原爆慰霊碑・追悼碑」を尋ねて回り始めた当初の頃、見つけ、とりつかれたように「凱旋碑・忠魂碑類調査」はじめたきっかけになった「戦捷碑」だ。詳しくはそちらにまわす。

2012年10月18日撮影。
 
   
             
   
   左は写真は1994年8月6日ののフィールドワーク時のもの
   
   

 黄幡神社の社殿は比較的新しく見え、戦後建て替えられたのかも知れないと思っていたが、その後、被爆建物として広島市のリストに掲載された。

石造りの物を見てみた。寄付碑が2つ。明治十四年十月建之、明治三十四年十月建之と刻まれている。古びた石灯籠に文化十五年と刻まれている。石碑には、昭和十三年戦死者川崎忠当二十八歳と名前が刻んである。大正五年三月と刻まれた石碑もある。
 堂々とそびえ立つ門柱は、明治百年記念の物で、昭和四十二年十月吉日 大河町 旭町霞町一同と記されている。当時、戦後20年か、明治百年かという時代把握の論争が行われていた。ここでは、明治百年が勝利しているようだ。その時建てられた新しい石灯籠には、地元の市会議員 町内会長 奥本甚作(当時75歳)の名で 長々と説教が刻まれている。いわく「世のために苦しむことは甘んぜよ」「平和実現の基礎は権利を主張するばかりでなく義務を果たす者が真の人間であり必要である。則ち権利と義務は車の両輪である。」など6か条の説教が刻まれている。比治山の陸軍墓地では、戦死者へ供養と共に、原爆投下の原因となった戦争への反省などが、ヒロシマを求めて訪れる人の目を気にしてか、様々な碑や墓の並べ方などにも少しは伺える。しかし、このあたりまで来ると、戦捷紀念碑といい、この説教灯籠といい、「平和記念都市広島」の生の姿が堂々と正体をあらわしてくる。  

2012年10月18日撮影。 

   
 

この地区は、明治初期まで漁村だった。しかし1980年代の千田貞曉知事による宇品港の埋め立てで大打撃を受けた。埋め立てに猛反対し、破れ、仕事が無くなり、埋め立てや宇品線建設の突貫工事に駆り出される、という日清戦争前の悲しい歴史を持つ地区でもある

虐げられた者であるがゆえに、心のよりどころとしてこのような戦捷碑にすがったのであろうか。それは今も昔も悲しいけれど同じだ。

2012年10月18日撮影。
 
   
   2012年10月18日撮影。
   
 中には「三代十郎衛塚」と刻まれた大きな碑があり、そばにこの碑の由来を記した説明板が立っている。この地区の歴史を書いた興味深い物だが、紹介は後日に。

2012年10月18日撮影。
 
   
   外にも嘉永二年と刻まれた碑や多くの古い碑、手水鉢がありいくらでも興味深くなるが、石造りものは全焼区域以外は被爆遺跡とは言えないのでこのくらいにしておく。

2012年10月18日撮影。